「私」という虚構!

「原始仏教三段ロケット」釈尊⇒道元⇒南直哉!

 

「自己」は「実体」ではない。「現象、出来事」である。

自己の存在意味は、他者が決める」

 

 

 

「中国禅」での、

「主体性」の確立は「非仏教」。

「キリスト教」での、

「神ヤハウェ」に対峙する「私」は、「虚構」。

 

道元は「自己」と「他己」と一緒に考える。

「自未得度、先度他」

 

この「度他」の事態とは、その「他」自身が

「自未得度、先度他」に目覚めて、活動を始めること。

 

つまり、

「阿弥陀仏が、凡夫を救う、行為」とは全く異なる。

 

そして、

南直哉は、その先を示す!

「自己の存在意味は、他者が決める」

 

善の根拠 (講談社現代新書)

善の根拠 (講談社現代新書)

2014/12/17 南直哉(著)

「なぜ人を殺してはいけないのですか?」
──従来は当たり前だと思われていたことにまで、その理由を説明しなければならない時代。
「常識」の底が抜け、すべてのものごとに、根拠がなくなってしまった時代。
「善きこと」に対する信頼が、すっかり失われてしまった時代
──そんな現代だからこそ、今一度、「よいこと」すなわち「善」とは何なのか、
その根拠は何なのかを考えてみることが必要とされているのではないでしょうか? 
人間という、限界あるか弱い存在の内に、善を求める態度、
すなわち本当の意味での「倫理」が立ち上がるために必要な条件は何か? 
本書は、恐山を主な舞台にして積極的な活動を展開する気鋭の禅僧が、
仏教者としての立場から、現代における難問中の難問に果敢に挑む問題作です。
根拠なき不毛の時代にこそ必読!
 
 
==或る書評から
現在只今,哲学している本.
大森荘蔵亡き後,哲学書との出会いを諦めていましたが,出会ってしまった次第.
道元あるいは大森荘蔵を想起させる言葉づかいが読者を「正しく考えることをやめないもの」の世界に引き摺り込む.

釈尊は第一義的に哲学者であったと思います.
「縁起:存在は他存在との行為関係から生起する」

南直哉はこの地点から善の根拠を問う.
「自己は他者に課せられて生起する」
私の言葉ではそのとき「自己=世界」が実現する.
これの受容/拒絶の選択には何の根拠も無い.即ち,「賭け」である.
「受容」に賭けたとき,「倫理」が立ち現われる.
それが善の根拠無き,根拠である.

(ここまで,たったの28ページ.「あとがき」にもある様にこれでは「本」にならんわな〜)

後はこのアイデアによる事例研究とディスカッション.
たとえば,
例1.僧の性行為の禁止 →「僧である私はセックスいたしません.」の理由.
「自己」を生起させない(子供を持たない)という方法によって,「自己」が存在しなかった可能性を
指示するため.「倫理」の無根拠性を示し,「善悪」の無化を志向する.

例2.「自己」は倫理主体としてどう構成されるか.
「他者に課せられた自己」を受容し,その最終的解消へ向かって,「因果」という思考方法により生
きること.
「因果」という思考方法=目的を決め,その実現ための手段の選択に賭け続けること.

例3.死ぬ気になれば何でもできる.
だから,結局のところ,その気を捨ててもらうしかない.理屈ではないんだ.

例4.つまり,怒る目的に対して,怒りは無用なんだ.
 
 
==或る書評から
著者は、
「自己」という存在が、「他者から課された存在」である
という「自己」の在り方に対する態度のとり方が、
倫理としての善悪の問題であるとし(p23)、
 
共同体の行動規制としての善悪である「掟」「道徳」と区別する(p156)。
 
そして、
善とは、「他者に課された自己」を受容すること、
悪とはその拒絶を肯定すること(「自死してよい」ということ)であると、定義する(p43)。

親が幼少の子に「自己を課す」という負荷を与える行為も、「自己」が存在することの承認であり、課される子にしてみれば自分が肯定されていることである。しかしながら、それが子の選択の余地なく一方的に開始されるとき、「課す」行為が親の承認であり、肯定でもあるのだということは、そのような意味としては幼少の子に最初は自覚されない以上、あらためて納得させられなければならないのだ(p45)と言う。

その「納得」の時期は、子が成長してその意味を理解できる年齢に達してのことであろう。また、納得できないケースでは、「他者に課せられた自己」を修正なりして作り直すことだろうか。
 

二、著者はこうも言う。
子は生まれることを了解して生まれたわけでもない。なのに、生まれてきた以上は「自己」を背負え、などと言われても納得できるはずがない。ならば、「自己」は強制されざるをえず、事実としては、「他者」から植え込まれる。要するに、子の受容は、特に幼少期にソフトな強制で行われるしかない。押し付けられるものが大切なものなのだと感じさせてもらうしかない。「愛情」というのは、そういう優しい強制だと思うんだ(p163)。

この場合、《自分》が「大切なもの」に含まれていなければ、
大切なものは、自分の外からやってくると思い込むようになってしまい、
常に、外部に価値を求めていくようになると思う。

また、「他者」としての「親」の立場の特異性は、
それを引き受ける意志も能力も備えていない存在に、
一方的に最初の「自己」を課すことである。
 
この点で、課した瞬間、その行為に無条件的な責任が発生する
(課したときの「親」の事情・状況は考慮されない。p45)という。
 
 
==或る書評から
著者の南直哉(じきさい)師は1958年生まれの曹洞宗の禅僧であり、福井県霊泉寺住職および青森県恐山菩提寺院代である。
大学卒業後、大手百貨店勤務を経て、1984年に曹洞宗で出家得度し、同年に曹洞宗大本山永平寺に入山、同寺で約20年の修行生活を送った(Wikipediaを参考にした)。
その過程で禅の思想を考え抜き(注:ではない。「死」「無常」が課題)
実践を重ねてきた。仏教に関する多くの著書があり、
そのいずれもが並みの仏教書とは一線を画した深い思索の結果である。

キリスト教やユダヤ教などの一神教では、戒律(倫理の根本)は絶対神から与えられたものであり(例:十戒)、
人間の立場ではその根拠を問う余地がない。
一方、仏教には絶対神が存在せず、諸行無常・諸法無我が基本にある。
つまりすべての存在は空だとするのが仏教である。
仏教の戒律は、教団に帰依した、つまり戒律を守ることを誓った僧に対してだけ有効である。
このような仏教では突き詰めると善悪の根拠が危うくなる(本書p.11)。
本書は諸行無常・諸法無我を土台として善悪の根拠を論じるという、
意欲的な試みである。
具体的には『正法眼蔵』の菩薩戒の「十重禁戒」(不殺生、不偸盗など)を一つ一つ検討している。

それしてもすべての宗教が「十戒」に類した戒律(倫理と道徳)を定めているのは壮観というか不思議でもある。
ここで、「道徳」は「人が守るべき規範=社会常識」であり、「倫理」は「人がより良く生きるための内面的な規範」である。
本書の議論も貴重であるが、ブッダにより定められた戒律を前提に
僧侶として倫理の根拠を問うているので、一般人にとっては隔靴掻痒、堂々巡りの感も否めない。

本書を読んでの感想であるが、倫理の起源の問題には人類学的な視野も必要ではないだろうか。
フランス ドゥ・ヴァール著『道徳性の起源-ボノボが教えてくれること』(紀伊國屋書店 、2014)では、霊長類の社会的知能研究を基に、道徳性は神から押しつけられたものでも人間の理性から導かれた原理に由来するものでもなく、進化の過程で哺乳類の社会生活の必然から生じた、とする議論を行っているが、評者には納得できる。仲間と暮らすからには、相手を思いやり、助け合い、ルールを守り、公平にやるのは動物も人間も同じなのである。つまり道徳や倫理(の原型)は、人が霊長類時代に集団として社会生活をおくるようになった時代にまで遡ると考えられる。

紀元前数世紀頃から、人間社会は農業の普及や国家の発生など社会の高度化が進みつつあった。この時代には古くからの倫理や道徳も社会の変化に追随できず、崩壊の危機を迎えていたと考えられる。一神教や仏教がこの頃ほぼ同時期に現れたのも倫理や道徳の危機を克服し、社会の結束を取り戻すことが隠された目的であったような気がしてならない。絶対神の存在もこの目的から生まれたと考えられ、徹底して世俗的とされる孔子の儒教でも「天」(一種の神)を前提にして倫理や道徳を説いている。

全ての宗教が、教理の一部に必ず倫理を説くのは人間社会を維持するため、と考えるのが科学的にも社会的にも納得できる。自分の子供から「なぜ人を殺してはいけないのか?」などと鋭く問い詰められても、人間は動物の時代から、助け合うことを学んできた、と自信をもって答えてはどうだろうか。古代の人々も、人類の発生以来「ずっとそうしてきた」戒律や倫理の起源に「権威」を持たせるために、「神が定めた」ことにしたのではないだろうか。しかしそれにもかかわらず、倫理をマヒさせたような戦争が昔も今も絶えないことは、難問ではある。