生まれた時代が早すぎた天才「ガリレオ・ガリレイ」の人生と功績(コスモポリタン) - Yahoo!ニュース

 

生まれた時代が早すぎた天才「ガリレオ・ガリレイ」の人生と功績

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ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。 知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け! ガリレオ・ガリレイ、何世紀に生きた人なのかをパッと答えられる人は少ないかもしれませんが、名前だけなら誰もが知る偉人ですね。世界史を学習した人であれば「地動説」「落体の法則」「それでも地球は回っている」といった言葉が頭に浮かぶかもしれません。 ガリレオが天才科学者であったことを今、否定する人はいないでしょう。 しかし、ガリレオが生きた16~17世紀、現在は当たり前に事実と受け止められていることは“当たり前の事実”ではありませんでした。当時には別の“事実”が存在していたのです。天才ガリレオは当時の常識を“証明”することで挑戦しつづけたものの、最後は罪に問われ、不遇のまま亡くなりました。 そんなガリレオの人生と功績について、知ったかぶりできるポイントを分かりやすく紹介します。彼の人生を通して「今、目の前に見えていること」を問いただす視点を発見できるかもしれません。

就活と出世に必死だった若き時代

ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日、商人であり音楽家・音響学研究家であった父ヴィンチェンツォと母ジュリアの第一子として、トスカーナ公国(現イタリア・トスカーナ地方)のピサで誕生しました。 1581年、ガリレオはピサ大学に入学し、医学を専攻しました。しかし、古典的な学者たちに失望したことや数学に魅了されていたことから、1585年に卒業することなく大学を退学。独自の方法で数学を学びました。 1586年、初論文「小天秤」を発表。翌1587年に発表した論文も評価され、高名な学者や貴族と知り合います。ガリレオは彼らに積極的に自分を売り込み、1589年にピサ大学の数学講師(3年任期、教授説もあり)に採用されました。 ここからガリレオの学者&研究者人生が始まりましたが、そんな彼に大きな不幸が襲いかかります。1591年に父・ヴィンチェンツォが死去したのです。 ヴィンチェンツォは音響の解明に数学的手法を取り入れた人物だったため、学問的な意味でガリレオに大きな影響を与えた人物でした。父の死去によりガリレオは25歳にして母ときょうだいを含む一家の大黒柱として家族を支えなくてはならなくなったのです。 家族を養えるだけの安定的収入を得るためには出世する必要がありました。ガリレオはピサ大学・講師職の任期が切れた後、パドヴァ大学、トスカーナ大公付学者等就職先を渡り歩きましたが、貴族に取り入ったり、聖職者に就職斡旋をお願いしたり、自分が世に認められるために必死に動いていたようです。 1599年ごろにマリア・ガンバという女性と知り合い3人の子どもをもうけるも、正式な結婚をしていないのも経済的事情だったと言われています。 ガリレオの本当の性格は定かではありませんが、記述を読む限りは押しが強く、自分の才能を理解した上で「世に認められたい」という思いが強い人物のようにも見えます。しかしこれは、ぐいぐい自分を売り込んでまでも収入を得なくてはならないという理由があったことも関係していたかもしれません。

 

 

 

 

近代科学と天文学、たくさんの功績

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ガリレオは「数学とは、神が天地万有(Universe)を書いた言語である」と語りました。彼は数学・物理学・天文学の分野で大きな功績を上げた人物ですが、そこに流れる手法は1つであり「物体の運動(動き)を実験で証明し、数式で表現すること」でした。 現代では当たり前とされる実証方法ですが、この手法を確立したのはガリレオであり、これがガリレオが「近代科学の父」と呼ばれる所以です。 ▼近代科学の父としての功績17世紀当時、学問は「万学の祖」と言われるアリストテレス(紀元前384年~紀元322年)が築いた哲学(哲学の中に数学や物理学、天文学等の各学問が分類される)が基本でした。 アリストテレスの時代からガリレオの時代まで2000年にわたり、何人かの科学者が異を唱えたこともあったものの、多くの“科学”がそのまま信じられてきました。 しかし、天才ガリレオは、自然界の動きすべてをアリストテレスの理論で証明することは不可能だと気づきます。 代表的な発見は「振り子の均等性」、そして「落体の法則」の発見です。 この「落体の法則」の実験として、ピサの斜塔から大小2つの球を同時に落として検証した…というエピソードは有名ですが、この実験をガリレオが本当に行ったのかは定かではありません。 ガリレオが実際に行ったのは、傾斜を使い、物を転がす方法でした。パドヴァ大学教授時代の1609年頃に数式として結論づけたと言われています。

「天の川」を観測したのも大きな発見でした。 アリストテレスは「地球が宇宙の中心(天動説)」と考え、また彼の宇宙観は「太陽系」内にとどまったものでした。しかしガリレオは天の川を見たことで、宇宙には恒星が無数にあり太陽だけではないこと、そして宇宙は太陽系に限らず、もっと広い「無限の世界」であることを知ったのです。 「地動説」を最初に唱えたのはガリレオではなく、少し前の時代に生きたポーランドの天文学者・コペルニクス(1473~1543年)です。ガリレオは1597年頃までにはコペルニクスの「地動説」を支持していたようですが、観測結果を記した『星界の報告』(1610年3月)はコペルニクスの説をさらに裏付けるものでした。 『星界の報告』は大きな反響を呼びました。賞賛した学者がいた一方で、アリストテレス主義者たちと論争を巻き起こし、彼の名は欧州の学術界に知られることになりました。 これに伴い名声を得ましたが、発見した木星の衛星を「メディチ星」と名付けてメディチ家(トスカーナ大公家)に献上したり、自作の望遠鏡を自分を引き立てるお偉方にプレゼントする等の“就活”にも勤しみました。 その甲斐あって、1610年、ピサ大学数学教授兼トスカーナ大公付哲学者・数学者という地位を得ます。1611年には科学アカデミーである「リンチェイ・アカデミー」に入会。この頃が「研究者ガリレオ」がもっとも輝いた幸せな時代でした。

 

 

 

 

「それでも地球は回る」二度のガリレオ裁判

ヴェネツィア元首に望遠鏡の使い方を示すガリレオ・ガリレイ。

しかし絶頂期は長くつづきませんでした。ガリレオが語る地動説は「キリスト教の教え(聖書)に反する」とされ、1616年に検邪聖省に異端の疑いで告発されたからです(第1回異端審問所審査)。 実のところガリレオは、とても敬虔なカトリック教徒でした。2人の娘を修道女にしており、神を冒涜する気なぞ全くありませんでした。 その彼になぜ異端の疑いがかかったのか――。これを理解するには時代背景と聖書を少し知る必要があります。

 

 ▼アリストテレス哲学とキリスト教

 

 この時代の学問は、アリストテレスが構築したものが基本でした。しかし、アリストテレスは古代ギリシャに生きた人。キリスト教が誕生するずっと前に亡くなっています。 その一方で2000年もの長きにわたりアリストテレス哲学が絶対的な権威であった理由は、キリスト教神学をアリストテレス哲学によって体系化した「スコラ学」が当時の学問そのものだったからです。 「スコラ」は「School」の語源であり、教会または修道院付属の学校を指します。この時代、すべての学問は「スコラ」、つまりキリスト教の下で研究されていたため、当時のキリスト教(カトリック)はアリストテレス哲学を絶対的に支持していたわけです。

 

 コペルニクスやガリレオが生きた時代、天文学者の“研究”とは空を見上げるのではなく、アリストテレス哲学の書物を学ぶことでした。

 

 そこに、実際に自分の目で天体が見えてしまう「望遠鏡」が登場し、

ガリレオのように押しが強く弁が立つ人物が現れたのです。

ガリレオは多くのアリストテレス主義者や権力者の反感を買いました。

 

 

 ▼聖書との矛盾

 

聖書に「天動説」が明確に書かれているわけではありません。しかし、旧約聖書の「ヨシュア記」10章12~13節にはこう記されています。 主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。 「日よとどまれギブオンの上に 月よとどまれアヤロンの谷に。」 日はとどまり 月は動きをやめた 民が敵を打ち破るまで。 この箇所を「『日(太陽)よとどまれ』と命じたら止まったのだから、太陽は動いているもの(=天動説)」と解釈すると、「地動説は聖書に反している」ということになります。 地動説が事実であると知っている現代の人にとっては、“こじつけ”による告発であると思うでしょう。しかし当時の人々が聖書を“文字通り”に読もうとすればそういう考えに至るのも分かります。 聖書は書かれた当時、人々が読んで分かるような表現になっており、比喩もたくさん使われています。聖書と実証された何らかの“真実(と思われること)”の間に矛盾があるように受けとれる表現の場合、「その奥にある意味を読み取る」ことも大切です。現代においてヨシュア記を理由に地動説に異議を唱える人はいませんが、他の箇所において「聖書を文字通り読むか、読まないか?」の問題は、現在のキリスト教に依然存在しつづけています。 ガリレオは「聖書は『どのようにして天国に行くのか』を語るものであり、天体の動きを語っているものではない」とし、「自然現象は神によるものであり、聖書と矛盾しない」「(どうしても矛盾が見られる場合、それは)聖書の真理がまだ解明されていないからだ」という解釈で、地動説が聖書に反していないと反論しました。 また、当時の学者や宗教者が全員「反ガリレオ」だったわけではありません。 アリストテレス哲学では説明できない現象があること理解していた人たちもいました。しかし「反ガリレオ派」によってこの聖書箇所は彼を追い詰めるかっこうの理由となりました。 ガリレオは元来の押しの強さと雄弁さで正当性を主張したことで敵を増やし、権力争いにも破れたのです。 

 

▼二度の裁判 第1回裁判で、「地動説を放棄すること」「この説を教えること、擁護すること、論じることを今後一切控えよ」と命じられたガリレオ。宣誓書にサインすれば無罪となるため、ガリレオはサインをしました。 ところが、ガリレオは再度訴えられました。 第1回裁判の命令を鑑み、1632年に出版した『天文対話』ではアリストテレス主義者、自分の代弁者(ガリレオ)、中立者の3人の対話形式で、地動説だけを主張するものにしませんでした。そのように注意深く書かれた書物でしたが、それでも「論じること」さえも禁止した命令に背いている、とされたのです。 1633年にガリレオは出頭を命じられます。この第2回裁判で『天文対話』は禁書となり、ガリレオは終身禁固を言い渡されました(翌年「自宅軟禁」に減刑)。 有罪を告げられたガリレオは、再び「地動説を放棄する」と宣誓させられました。 宣誓の後、「それでも地球は回っている(動く/動いている)」とつぶやいたというエピソードが有名です。しかし、実際にガリレオが言ったという記録はなく、後年に弟子が後づけで作ったエピソードの可能性が高いようです。

 

 

 ▼実は77歳まで生きたガリレオ 自宅軟禁は生涯解かれることはなく、心身ともに疲れ果てたガリレオは体を病みました。1637年には片目を失明、翌年には両目を失明しました(望遠鏡の見過ぎによる失明の説あり)。 失意の底にありつつもガリレオは最後まで研究を続け、口述筆記により『新化学対話』を書きあげます。イタリア内では出版できないため、この書物は国外に持ち出され、1638年にオランダで出版されました。これがガリレオの集大成となりました。 その4年後、1642年にフィレンツェ郊外のアルチェトリの自宅で亡くなりました。享年77歳でした。

 

 

 

名誉回復まで350年!ガリレオの人生から見えること

ガリレオの名誉がカトリック教会によって正式回復されたのは、死去から350年後の1992年でした。 ローマ教皇(当時)ヨハネ・パウロ2世は下記のように述べ、無罪が確定しました。 「地球が中心であると主張した当時の神学者たちの誤りは、物理的世界の構造についての私たちの理解が、ある意味において聖書の文字どおりの言葉を押し付けられたことだった」 ガリレオ個人としては遅すぎる名誉回復でしたが、この出来事はキリスト教を信じる多くの科学者や研究者に大きな意味があったことは言うまでもありません。聖書を“文字通り”にだけ読むと真実と相違してしまうことを、ローマ教皇庁というカトリックの権威が理解し、今後の科学の研究・発展のさまたげを排除したからです。 デジタル時代の今、「“真実”を知りたい」と思っても、ネットには“真実と思わしき情報”が無数に存在しています。真実より誤りを支持する方が多数派であったり、「フェイクニュースを拡散したい」と考えた人の声の方が大きい場合、知りたいと思った人が真実にたどり着けないこともあるでしょう。 結局のところ、何を信じるべきなのだろう――。そう思ったとき、ガリレオのことを思い出してください。 少数派の意見でも、今現在では受け入れられない考え方でも、そこに真実や正義があるかもしれません。時流に流されず、自分で考え、答えを導き、正しいと思った意見を口に出すこと。とても勇気がいることですが、さらに情報が氾濫していく時代に生きる私たちにとって、大切な姿勢だと思うのです。

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