イスラエルの歴史のはじまりとして伝えられた「出エジプト」の出来事【物語としての旧約聖書】 - Yahoo! JAPAN

 

イスラエルの歴史のはじまりとして伝えられた「出エジプト」の出来事【物語としての旧約聖書】

NHK出版デジタルマガジン

イスラエルの歴史のはじまりとして伝えられた「出エジプト」の出来事【物語としての旧約聖書】

 楽園追放、バベルの塔、十戒……謎めいた物語に満ちた旧約聖書、その秘密の一端を明らかにしたNHKブックス『物語としての旧約聖書 人類史に何をもたらしたのか』が刊行され版を重ねています。本書の中から、イスラエルの民にとって民族の歴史の起点であり、彼らの信仰の原点でもある「出エジプト」の章を抜粋して公開します。

※本記事用に一部抜粋・再構成して公開

『物語としての旧約聖書』第7章「出エジプト」より

十戒とシナイ契約

 エジプトを脱出して三か月目、イスラエルの民はシナイ山の麓に到着し、そこにしばらく逗留します。その間、モーセはシナイ山に登り、神からこの民が守るべき律法を授かります。これが「モーセの律法」です。それらは出エジプト記、レビ記、民数記にまとめられました。そして、その律法の基本となるものが二枚の石の板に刻まれたという「10の言葉」でした。

 

 十戒を基本とする「モーセの律法」は宗教的戒律にとどまりません。

供犠・供物に関わる祭儀法から日常生活、家族生活に関わるさまざまな社会法まで、多岐にわたります。

 

祭儀法には、供犠・供物に関する細則など、明らかに後のエルサレム神殿祭儀を念頭においた規定が見受けられます。

社会法のなかにも、土地や農作業に関わる諸規定などのように、後の定住農耕生活を前提にした律法が少なくありません。

 

歴史的にみると、それらは明らかに後代に成立した祭儀規定であり、社会法でした。

ところが、律法はすべて「出エジプト」後のシナイ山麓で、モーセを介して授けられた、と聖書は伝えるのです。

イスラエルは律法を守るべき民として、シナイ山麓からその歴史を歩みはじめた、ということです。

 

 エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民は、

こうして、「契約の民」としての歩みをはじめることになりました。

 

父祖たちへの契約は神からの約束が中心でしたが、

シナイにおける契約をとおして「神の民」とされたイスラエルの人々には、

神から授けられた律法遵守の義務が課せられることになったのです。

荒野の旅

 ところが、出エジプト記から民数記に記された物語部分は、エジプトを脱出した後のイスラエルの民の歩みが神およびモーセに対する「反抗」の連続であったことを物語るのです。

 エジプトを脱出してから「乳と蜜の流れる」約束の地にいたるまで、イスラエルの民は40年という歳月を荒野で過ごすことになります。その間、イスラエルの民は、一方で、昼は雲の柱、夜は火の柱で守り導かれたといいますが、他方では、飲み水を与えよ、エジプトの肉鍋が恋しい、パンを腹いっぱい食べたい、と言ってモーセに詰め寄ります。そのつど、奇蹟が起こって、そうした危機を乗り越えてゆくのです。しかし、許しがたい出来事も繰り返されました。

 その一つが「金の子牛」事件です(出エジプト記32章)。モーセがシナイ山からなかなか降りてこないので、民がモーセの兄アロンのもとに集まると、アロンは集めた金の飾り物を鋳造しなおして、金の子牛像を造らせます。そして、これを「エジプトの地からあなたを導き上った神」と呼び、この像を民に拝ませたのです。それを知ったモーセは「10の言葉」が刻まれた二枚の石板を子牛像に投げつけ、これを粉々に砕き、「敵対する者たち」3000人を剣にかけて殺させたといいます。この逸話には、ソロモン没後、王国が南北に分裂した際、北王国の最初の王ヤロブアム(一世)がダンとベテルの聖所に据えたという「金の子牛」像(列王記上12章28-29節)に対する批判がこめられています(上掲写真参照)。

 イスラエルの民がモーセに逆らって、エジプトに帰ったほうがましだ、と言い出したことも一度ならずありました。エジプトの軍隊が追跡して来たとき、荒野で食料が足りなくなったときなどでした。モーセがカナンの地に送った偵察の一部から、カナンには強力な巨人族が住んでおり、その地に入ってゆくことはできない、とのうわさが流されたときも同様でした。神ヤハウェはそれを聞いて、モーセの後継者ヨシュアなどを除き、20歳以上の者は誰一人として約束の地に入ることはできない、とモーセに語ります。そして、20歳以上の者たちがすべて荒野で生涯を終えるまで、40年間、イスラエルの民は荒野にとどまる、と告げています(民数記14章26-35節)。約束の地に入るまで40年という歳月が必要であった理由がここにありました。

 

 

 荒野の40年は民による不平、反抗、離反の連続でした。最後はペオルにおける醜聞です。イスラエルの民は南から約束の地に向かわず、死海の東岸を迂回して、東から約束の地に向かいました。ところが、モアブの野では、モアブの娘たちに惹かれ、彼女たちが祀るバアル崇拝に魅せられる者たちが出たのです。それゆえ、神ヤハウェの怒りにふれ、殺害された者たちは2万4000人にのぼった、と伝えられています(民数記25章1-9節)。

 

 エジプトを脱出したイスラエルの民が彼らの神ヤハウェから離反したことについて、

紀元前740年ころ、

北イスラエルの預言者ホセアは、次のような神ヤハウェの言葉に要約しています。

イスラエルが若いとき、わたしはこれを愛し、
エジプトから呼び出して、わが息子とした。
わたしは彼らに呼びかけたが、
彼らはわが前から立ち去った。
かれらはバアルたちに犠牲を献げ、
数々の偶像のために薫香を焚いた。 (ホセア書11章1-2節)

モーセの死

 モーセ五書の第五番目の書である申命記は、イスラエルの民がエジプトを出てから40年目の第11の月(現暦1-2月)に、モアブの野において、モーセが民にふたたび語り伝えたという律法を中核に据えて編まれました。そこには、十戒をはじめとして、シナイ山で授かった律法と重複する内容もありますが、総じて独自の律法が並んでおり、とくに12章から26章までを研究者たちは申命記法と呼んでいます。

 

 申命記法は、歴史的には、ヨシヤ王(在位紀元前640-609年)がその改革の基礎とした律法集であった、と考えられています。ヨシヤ王の治世18年目(紀元前622年)、神殿内で「契約の書」といわれる律法の書が発見され(列王記下22章8節以下)、王はこの書にもとづき、民とともに、神ヤハウェの前であらためて契約を結び、祭儀改革を断行してゆきます。

 

その改革の柱は徹底した異教祭儀の排斥とヤハウェ祭儀のエルサレム集中でした(同23章1節以下)。

前述したエルサレム神殿における過越祭の挙行もその一環でした。

申命記法にはこの祭儀集中と異教排除が明記されているのです。

 

その冒頭から、偶像や異教祭儀の場は破壊すべきこと、神ヤハウェへの供犠・供物は「ヤハウェがその名をおくために選ばれた場所」すなわちエルサレム神殿で献げなければならないことが命じられています(申命記12章1-7節)。

 申命記は、このような申命記法に続けて、この律法を守れば神の祝福が、これに背けば神の呪いがイスラエルの民にくだされる、ということを具体的に記します(申命記28章1-68節)。

 

そして、モアブの野において、モーセはシナイ契約とは別に、

祝福と呪いにもとづく契約をイスラエルの民に結ばせました(同28章69節以下)。

これを「モアブの契約」といいます。

 

そして、モーセの歌とイスラエルの諸部族へのモーセの祝福の言葉を添えるとともに、モーセの最期を簡潔に描いて、申命記は閉じられます。エジプトの地からイスラエルの民を率いてきたモーセは、ヨルダン川の東にそびえるピスガの峰に登り、遠くに約束の地を見渡しながら、120年の生涯を閉じました。

 

イスラエルの民を約束の地に導くモーセの後継者がヨシュアでした。

 

 イスラエルの歴史のはじまりとして伝えられた「出エジプト」の出来事は、

この民にとって、信仰の原点となり、社会法の基礎となりました。

それは、しかし、過去に起こった一時的な出来事にとどまりませんでした。

エジプトの奴隷から解放された物語は、厳しい情況におかれた弱小の民にとって、将来の希望の原理にもなりました。

著者

月本昭男(つきもと・あきお)
1948年、長野県生まれ。古代オリエント博物館館長。経堂聖書会所属。専門は、旧約聖書学・古代オリエント学・聖書考古学・宗教史学。著書に『詩篇の思想と信仰』Ⅰ~Ⅵ(新教出版社)など。2018年度、NHK「宗教の時間」で通年『物語としての旧約聖書』を講じた。

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