楽園追放、バベルの塔、十戒……旧約聖書の秘密を紐解く【物語としての旧約聖書】 - Yahoo! JAPAN

 

楽園追放、バベルの塔、十戒……旧約聖書の秘密を紐解く【物語としての旧約聖書】

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楽園追放、バベルの塔、十戒……旧約聖書の秘密を紐解く【物語としての旧約聖書】

 楽園追放、バベルの塔、十戒……宗教史にはかりしれない影響をおよぼした旧約聖書は、謎めいた物語に満ちています。

その秘密の一端を明らかにした『物語としての旧約聖書 人類史に何をもたらしたのか』が

1月に刊行され版を重ねています。著者は、古代オリエント史・聖書学が専門の月本昭男さん。

当記事では本書の「はじめに」を特別に公開します。

※本記事用に一部再構成して公開

『物語としての旧約聖書 人類史に何をもたらしたのか』はじめにより

旧約聖書成立の歴史

 聖書には、旧約聖書と新約聖書があります。

後者の新約聖書はキリスト教会内で成立した書物です。

そこには、イエスの教えと十字架の死にいたる生涯を伝える福音書、初代キリスト教の宣教の記録、キリスト教をローマ世界に伝えたパウロの書簡など、キリスト教が確立してゆく過程で記された二七の書物が収められています。

 

 旧約聖書のほうは、大小三九の書から構成されています。そのほぼ半分は古代イスラエルの先祖たちの物語や王国の歴史記述ですが、預言者たちの言葉、イスラエルの民が詠った詩歌、さらに短編小説を思わせる物語や人生を省察した作品などがそこに加わります。聖書と呼ばれるので、堅苦しい宗教的な教えを思い浮かべる方もおられるかもしれませんが、そこには人間味あふれる物語が少なくありません。

 

 旧約聖書が現在のような形にまとめあげられたのは紀元前二世紀ころです。

キリスト教に先立ち、ユダヤ教の聖書としてそれは成立しました。

しかも、その大半が記された時期はそこから幾世紀もさかのぼります。

それらは、ユダヤ教が確立する以前に、古代イスラエルの民によって書き残された書物群でした。

ユダヤ教はこれを基礎にして成立したのです。

ですから、ユダヤ教徒にとっては、いまでも旧約聖書だけが聖書です。

彼らはこれをミクラーあるいはタナハと呼びます。

ミクラー(Miqrā’)とは「朗読すべきもの」というほどの意味、タナハ(TaNaKh)は、旧約聖書をトーラー(Tôrāh「律法」)、ネビイーム(Nəbîʼ îm「預言者たち」)、ケトゥビーム(Kətûbîm「諸書」)という三つの部分に区分し、それぞれの頭文字を並べてこれに補助母音aを付した名称です。

ユダヤ教の聖書がなぜキリスト教の聖書とされたか

 では、ユダヤ教の聖書がなぜキリスト教の聖書とされたのでしょうか。ナザレのイエスも彼の弟子たちもユダヤ人として旧約聖書に通じていましたが、十字架にかけられたイエスをメシア=キリスト――キリストはヘブライ語メシア(マシーアハ)のギリシア語訳です―――と信じた弟子たちは、次第にユダヤ教からたもとを分かってゆきました。ところが、ユダヤ教の聖書はそのまま受容したのです。その理由は、メシアを待望する預言(「メシア預言」)をはじめ、旧約聖書に記された内容の数々はイエス・キリストにおいて成就した、と彼らが信じたことにありました。そして、後に成立した新約聖書と区別して、これを旧約聖書と呼ぶようになりました。

 ユダヤ教の聖書がキリスト教に受容されることにより、旧約聖書に伝わる思想の多くもキリスト教へと引き継がれました。唯一神観、自然観、歴史観、人間観など、キリスト教思想の多くは旧約聖書に由来します。それだけではありません。ユダヤ教やキリスト教を介して、旧約聖書の物語や思想はイスラム教にも受け継がれました。初期のイスラム教徒が自分たちを創世記に物語られるアブラハム(イブラヒム)の子孫と理解したことなどは、その一例です。

古代イスラエルの民とは何か

 旧約聖書を残した古代イスラエルの民は、紀元前一二〇〇年前後にパレスティナに定住した弱小の一民族でした。紀元前一〇〇〇年ころに王政に移行したあとも、彼らは弱小の民であるがゆえに、南のエジプトと東のメソポタミアに興ったアッシリアやバビロニアといった大国のはざまで翻弄され続けました。王国は南北に分かれ、北王国は紀元前七二二年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前五八六年にバビロニアによって滅ぼされ、ユダ王国の主だった人々は国を失ってバビロニア捕囚民となりました。

 

捕囚から帰還した紀元前六世紀後半以降、エルサレムを中心とする彼らの地はペルシア帝国の一属州になり、ペルシア帝国が滅亡してからは、エジプトのプトレマイオス朝の、またシリアのセレウコス朝の支配下に組み込まれました。旧約聖書に記されたもっとも新しい時代は、マカベア戦争と呼ぶ、ユダヤの民が蜂起し、セレウコス朝に独立戦争を挑んだ紀元前二世紀前半です。その後、ハスモン朝さらにはヘロデ王による独自の王政が敷かれた時期もありますが、紀元後七〇年、反ローマ独立戦争に敗れたユダヤの民は故地を失い、世界に散在する民(ディアスポラ)となるのです。

 

 古代イスラエルのこのような歴史のなかで、旧約聖書は書き記されました。そしてそれが、ユダヤ教成立の基礎となり、キリスト教誕生の土壌となり、イスラム教にまで浸透しました。当時の古代オリエントの強大国に翻弄され続けた弱小の民が残した旧約聖書は、こうして、その後の宗教の歴史にはかりしれない影響をおよぼすことになりました。それは人類宗教史に生起した一大逆説と呼びうるような現象です。旧約聖書には宗教を形成する力が秘められている、ということでしょうか。

 

 

 旧約聖書の原文は、古代イスラエルの民が日常的に用いていたヘブライ語(一部アラム語)で記されています。これを今日に伝えたのはユダヤ教の学者たちでした。それに対して、ローマ世界からヨーロッパ全域にひろまったキリスト教は、ながらく、紀元前二世紀ころに訳された、七十人訳と呼ばれるギリシア語訳の旧約聖書を、さらにはウルガータと呼ばれるラテン語訳旧約聖書を重んじてきました。そこにはヘブライ語聖書にはない書物がいくつも加えられました。ギリシア語(一部ラテン語)を原典とするそれらの書は日本語で「旧約聖書続編」と名づけられましたが、キリスト教の教派によって、その位置づけにはひらきがあります。たとえば、カトリック教会はこれを旧約聖書に含めますが、プロテスタント諸派は聖書とは認めません。

 キリスト教世界でひろくヘブライ語聖書が重視されるようになるのは、旧約聖書の学問的研究が確立する一九世紀以降のことです。本書では、ヘブライ語で伝わる旧約聖書にもとづき、古代西アジア文明地の一隅に歴史を刻んだイスラエルの民が伝える物語をたどりながら、そこにたたみ込まれた思想と信仰の特色を探ってゆきます。

 

それによって、人類の宗教史にはかりしれない影響をおよぼしえた旧約聖書の秘密の一端を、また旧約聖書のもつ今日的意義の一端を明らかにできれば、と願っています。

著者

月本昭男(つきもと・あきお)
1948年、長野県生まれ。古代オリエント博物館館長。経堂聖書会所属。専門は、旧約聖書学・古代オリエント学・聖書考古学・宗教史学。著書に『詩篇の思想と信仰』Ⅰ~Ⅵ(新教出版社)など。2018年度、NHK「宗教の時間」で通年『物語としての旧約聖書』を講じた。

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