シェーンベルクを聴きながら 「音の平等主義」とわが国の風潮の行方 モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら(171)(産経新聞) - Yahoo!ニュース

シェーンベルクを聴きながら 「音の平等主義」とわが国の風潮の行方 モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら(171)

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産経新聞

シェーンベルクCDジャケット

◇たまには無調音楽でも バッハが好きだ。よく聴くのは、パブロ・カザルスの「無伴奏チェロ組曲」、ヨーゼフ・シゲティの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」、ヘルムート・ヴァルヒャの「平均律クラヴィーア曲集」などなど。ただ、彼の生み出した完璧に調和した響きばかり聴いていると、アルノルト・シェーンベルクの無調音楽を無性に聴きたくなることがある。一種のスパイスである。 主音や主和音の支配の下にまとめられる、音に主従関係のある調性音楽に対して、シェーンベルクは平均律の12種の音を均等に用いた技法、ドデカフォニーを創案した。12の音を均等に使いながら騒音を作るのはいとも簡単だが、音楽を作るのは至難の業だ。そこで彼は、12の音を使った基本音列を作り、その音列を基に精密機械を組み立てるように作曲を進めた。自然から完全に遮断された実験室で作られたような、自然の景色も見えてこず、人間の喜怒哀楽も感じられないきわめて人工的な音楽は、緊張を強いて、調性音楽で弛緩(しかん)した耳をシャキッとさせてくれる。その意味でけっして嫌いではない。 いまイタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが弾くシェーンベルクの「3つのピアノ曲」を聴いている。この上なくシャープな演奏だ。12音を均等に扱う、すなわち「音の平等主義」とも言うべきドデカフォニーの技法で作られた音楽を、政治的に筋金入りの左翼だったポリーニがこよなく愛していることが伝わってくる。とはいうものの、年に数回聴けば十分だ。こんな音楽ばかり聴かされていたら、精神の変調をきたすのは間違いない。私はすぐにバッハへ回帰する。 ポリーニの演奏を聴きながらふと思いついた。わが国はドデカフォニーの音楽に覆われつつあるのではないかと。 ◇善意で舗装されたLGBT法 昨年、人間の多様性を尊重し、平等を推進するという誰もが反対しにくいスローガンのもと、LGBTなど性的少数者への理解増進法が成立した。真っ先に頭に浮かんだのは、「地獄への道は善意で舗装されている」という格言だった。諸説あるが、第2回十字軍を推進した12世紀フランスの神学者、クレルヴォーのベルナルドゥスの言葉がその元になっているといわれる。 善意で舗装されているLGBT法の問題点は、ざっくりといってふたつある。ひとつは、この世界は男と女で構成されているという単純な認識が否定され、その認識のもとに長い年月をかけて築かれてきた伝統文化や慣習が、見直しや破壊の標的にされる可能性のあること。もうひとつは、生物学的な性よりも本人の自認を優先するため、「自分は女性」と騙(かた)った者が、女性風呂や女子トイレ・更衣室を利用する権利を主張し、実際に行動を起こすことで、社会が混乱する可能性があること。現実に混乱は生じている。

 

 

 

LGBT法とは直接関係ないが、無関係ともいえない、とても気になるニュースがあった。愛知県稲沢市の国府(こうの)宮(みや)神社で、ふんどし姿の「裸男」たちが激しくもみ合う「国府宮はだか祭」に今年、初めて女性が参加したというものだ。「裸男」のもみ合いとは別の時間帯に、法被を着た女性たちがササを奉納したが、約1200年の歴史で初めてのことだという。

 

 

リベラル系のメディアはこれをきわめて好意的に報じていたが、

私は思わず「どうして?」と首をひねってしまった。

 

家族の安全祈願や能登半島地震からの復興など女性たちが参加に込めた思いはさまざまだが、

そこには神事の伝統をつないできた死者たちが忘れ去られているように感じたからだ。

神事とは生者だけのものではない。

継承してきた死者たちのものでもあるはずだ。

 

産経ニュースはことの経緯を次のように報じている。

《祭りには長年の慣習から、ふんどしなど以外での神事参加が許されておらず、女性は事実上参加できなかった。ここ数年、新型コロナウイルスへの感染対策で男性も着衣で参加した実施回があり、地元の女性団体が昨年、「それが許容されるならば、女性も可能ではないか」などとして神社側へ参加を要望。神社が安全面の確保などを含め対応を検討していた》

死者たちが継承してきた伝統を忘れたかのような神社側の対応は、LGBT法を成立させてしまうようなわが国の空気、言い換えれば、「音の平等主義」であるドデカフォニーに私たちがのみ込まれている証しのように思われる。

祭り関係者は、まず「生者の驕(おご)り」について、さらには、社会の調和を保ち、それぞれが気持ちよく生きてゆくためには、男性、女性、LGBTを問わず、人間は与えられた条件のなかで、どう考え行動すればいいのかを、じっくりと考えてもよかったのではなかろうか。ここでモンテーニュの言葉を紹介しておこう。

《我々の偉大で光栄ある傑作とは、ふさわしく生きることである》(第3巻第13章「経験について」関根秀雄訳)

 

 

「ふさわしく」とはそれこそ、人それぞれだろう。ただ今回のような、1200年も続いた男性主体の神事に参加することが、女性にとって「ふさわしく」生きることとは、私には到底思えない。

 

◇わが国は無調の世界へ?

 

話を音楽に戻そう。調和のある響きは、主従関係を持った音によって作り出される。ハ長調であれば主人はド、イ長調であればラ。調性によって主人は変わる。つまりこう考えることはできないだろうか。ピアノの鍵盤を思い起こしてほしい。ドレミファソラシの7音と半音の5音を合わせた12音。人間は誰しもそのうちの1音を受け持つ。それがソの音ならば、ト長調の曲では自分が主人になり、ハ長調の曲では主人のドに仕えるナンバー2となって調和ある響きを助けることになる。かりに調性のない「音の平等主義」しか認められないとしたらどうなるか、想像してほしい。LGBT法の制定されたわが国は、まさにそんな社会に突入しようとしているように思えてならない。

 

「音の平等主義」はおそらく社会に不協和音を氾濫させ、機能不全に陥らせるはずだ。それを収拾するのは間違いなく独裁者だ。

書きながら混乱をきたしてきた。ドデカフォニーとLGBT法を結ぼうなんて無謀な試みだったようだ。頭を冷やすために、これからヴァルヒャがチェンバロで弾くバッハの「平均律クラヴィーア曲集」の1曲目から聴いてゆこう。(桑原聡)

 

 

 

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