東京都赤坂の「豊川稲荷神社」で、2月16日、夕の6時から7時半まで90分間の
南直哉師による
『正法眼蔵』全87巻の連続講義の、2回目を学んだ。
そして、直接、ご質問もできた。
(なお、3回目は、3月22日(金)である)
あっと驚く、南直哉師!だった。
やはり、「師」は持つべきである、とつくづく感じた。
南師の見解:
道元は、如浄の教えと違っているのを知っていて、
あえて、「心の塵を」を「身と心とが」へ、書き換えた。
南方の中国語では、発音が似ているかも知れないが、
その違いが分っていたはずだ。
発音の勘違いではない。
如浄禅師の語録も読んで調べたが、
如浄禅師の内容は、道元のものに比較すると、大したものではない。
道元和尚は、その事を解っていた。
如浄禅師は、道元によって、ようやく中国禅史で名前が残されたのだ。
「親の七光り」の逆であり、「子・道元の七光り」だ。
如浄禅師は、道元に教えた。
「参禅」は「心塵脱落」だ。
「坐禅」とは
「本来の清浄心に着いた塵(煩悩)を、洗い落とす」行為だ。
道元和尚は、この言葉を、次のように、受け取った。
「坐禅」とは
「(持続するように見える根拠)肉体と精神とが、両方とも存在しない」事実だ。
ここで、鈍感な私は、初めて、気が付いた。
『宝慶記』は、
如浄禅師と道元和尚とが、会話を行った後に、
自分の床に戻った後に、記録されているのである。
道元が、重ねて、質問した内容によって、
如浄禅師が「心に着いた塵」と教えているのが、
はっきりと理解できているのである。
それを、あえて、
全く、正反対の意味に、書き換えているのである。
如浄禅師は「見<性>、成仏」である。つまり「中国禅」
道元和尚は「見<性>、成仏」を否定する。つまり「初期仏教」
だからこそ、
『宝慶記』は、弟子の誰にも、公開しなかった。
道元の死後、懐奘禅師が、遺品の中から、発見して、
清書して、その散逸を防いだ。
本当に感謝である。
〇 〇 〇
以下は、私見です。
懐奘禅師は、凡庸な方で、だから、
「道元の教え」そのものを、終生理解できなかった。
(私は、道元から「嗣書」を授けて貰えていなかったと考える。
だから、後に、義介禅師によって「日本達磨宗」に回帰したと考える。
しかし、宝慶寺の「中国禅」の義雲たちによって、義介は追放された。)
そのため、
「道元の著作」を、忠実に残すことに、生涯を尽くした。
ただし、
「永平寺の管理人」としては、有能であった。
道元は、死の直前に、永平寺の管理を任した。
その外にも、いろいろと教えを請うた。
そして、明快な回答を頂いた。
現在、反芻中。
なお、
高齢者の記憶を思い出しながら、「備忘録」として書いているので、
知らずに間違えているかも知れません。その場合は、ご容赦を。