南直哉先生

 

いろいろご指導いただき感謝しております。

以前の「三国仏教連続講義」にて、道元は日本において「正伝の仏法」を把握しており、日本においてそれを「証明する師」がいないので、中国・宋に渡って求めた。そして、如浄禅師だけがそれを証明したので道元は「正師」と認めた、という趣旨のお導きがありました。

この観点から、以前からの「独自の学び」を見直して、それが正しいことを確認できました。

 

なお、蛇足ですが、

高祖・道元和尚は「原始仏教」であり、太祖・瑩山禅師は「日本達磨宗・中国禅・老荘思想・天台密教・白山信仰・修験道」であり、「別の宗教」であって、「どちらが正しいかを測る共通の尺度は」ないのだから、どちらも「同等に、正しい」と思っております。ですから、現在の日本曹洞宗には、「二種類の宗教」が用意されていて、好きな方を選び取れば良いと。

この観点からは、『修証義』は現在「経典」として扱われ、現に「瑩山禅師の教え」を良く表現しているものと考えております。ですので、否定的に扱うのではなく、別のもの、道元の『正法眼蔵』とは関係ないもの、の扱いが良いのではと、愚考しております。その意味で、前回、日本曹洞宗(日本達磨宗)を「偉大な宗教」と申しました。なお、花園大学の「柳田聖山」教授は、瑩山禅師の『伝光録』を「日本の禅の完成」と絶賛しています。

 

つきましては、そのアウトラインを整理してみました。

間違っている点、不十分な点がありましたら、御講義の中で、お教えいただければ幸いです。

 

1 道元は「原始仏教」であり、その教団の傘下に「中国禅」「日本達磨宗」を含んでいた。

 道元の教団は、原始仏教、中国禅、日本達磨宗の混成体だった。

「原始仏教」道元ご自身、僧海、義尹(道元から嗣書を授かる)

・「中国禅」寂円・・・後に、義雲も

・「日本達磨宗」懐奘、懐鑒、義介、義演、・・・後に、懐鑒は離れる。義介が道元との連絡係を務める。

  これは、みな、道元から「嗣書」は授かっていない。

 ・・・義介が「懐鑒」から嗣法し、更に、瑩山禅師に「日本達磨宗の印可状」を授ける。

 ・・・この「義介」は、最晩年、瑩山長老に対して「義鑒」と署名している。

 

2 この3つは「別の宗教」だから、3つとも同等に正しい。3つの間には正しさを測る尺度はない。

 瑩山禅師は「五老峰」を築き、如浄禅師を「高祖」に据えて「如浄⇒道元⇒懐奘⇒義介⇒瑩山」を完全に同じ教えであるとして「日本達磨宗」の正統性を主張した。道元の「原始仏教」は完全に隠蔽された。同時に「正統を証明する品々」を地中に埋めて証拠隠滅した。

同時に『伝光録』を表して「如浄⇒道元⇒懐奘」の「見性成仏」の物語を用いて、結果的に「如浄⇒懐奘」の法の連続を主張した。道元は「見性成仏」を否定しているのに。

 

3 道元は「原始仏教」「釈尊の目」から「中国禅」「日本達磨宗」を見ており、導こうとした。

 

4 道元は、「原始仏教」を民衆は理解できない、と認識していたので、「上からの布教」を試みた。

朝廷に『護国正法義』を奏聞した。天台宗の高僧によって「小乗仏教、特殊な縁覚乗」と判定され、却下。

藤原氏の円爾弁円禅師「東福寺」密教兼修の中国禅の勢力で、京都市内・郊外での布教不能になった。

このため、拠点を越前に移して、「日本達磨宗」の弟子へ「洗脳」を解こうとしたが、失敗した。

そのため、次に鎌倉幕府を利用しての布教を図った。鎌倉に行き、半年間努力したが失敗した。

再び、永平寺に戻って来て、後生に託して、主著『正法眼蔵』を「旧草75巻と新草12巻」にまとめた。

 

5 懐奘は、日本達磨宗で修業を完成させたままで変わらず、だから、道元は「嗣書」を授けなかった。

「僧海」が道元から(「原始仏教」の)「嗣書」を授かると、それまで「首座」だった「懐奘」は降ろされて、代わりに僧海が就いた。同様に、義尹にも「嗣書」を授け、だから、「如浄禅師の回忌法要」に自分の代わりに、二度も、中国に送った。

他方、懐奘は、「道元の法・原始仏教」を継いだのではなく、永平寺という「寺院の管理業務」だけを、病気になった道元から委託された。永平寺二世。なお、義介が永平寺三世に就き「日本達磨宗」に改宗したので「三代相論」の紛争が起こった。義介は永平寺から出て、白山天台宗の古寺・大乗時に移って「日本達磨宗」を布教した。「先祖崇拝、所謂、葬式仏教」は義介禅師が始め、瑩山禅師に引き継がれていった。他の宗派も次々にこれを真似て、仏教=葬式仏教の感じに変わった。

 

6 如浄禅師は特異な人物だった。「中国禅」だが、思想的には古い仏教「天台宗、止観修業」であった。

だから「教外別伝・不立文字」でなく、「小乗仏教・大乗仏教」「お経」を尊重した。

道元は「一切経」『阿含経』などを探求して「原始仏教」を理解し、その立場に立ったので、それが認められた。

更に、如浄禅師による「中国禅」の「心塵脱落」の教えも誤解して、「原始仏教」の「身心脱落」と受け取った。

なお、中国語での発音は、北京など北方では、別の発音になるが、南の寧波地域では同一の発音となる。

如浄禅師の『語録』では、「心塵」と明確になっていて道元にも届けられたが、道元は「身心」を変えなかった。

道元の考えの「この二つ」が如浄禅師によって証明されたので、道元は如浄禅師を「正師」と認めた。

 

7 原始仏教は「無我」であるから「見性成仏・中国禅」とは正反対である。

「火縄銃の火縄に火を点けると、燃えて、次第に、炎が移動していく」

ここで、「炎・という・酸化現象」が起こっているのであり、燃える原因によって、次に結果が現れる、

だけであり、「炎・という・現象」の背後に「何か継続しているもの・実体」を想定しない。

これが「原始仏教」である。

他方、「中国禅」は、老荘思想であり、「主体」を確立して、外境からの影響は何も受けないようにして(縁起は成立しない)、「道ダオ」に任せて「無為自然」「無事」に徹すればよい。と教える。

そして、この「真理」は「言葉」で表現できないとして、「教外別伝・不立文字」を主張して「釈尊の教え、原始仏教」を完全に否定する。後の、宋代の「看話禅」は、「唐代の禅語録」から、「言葉の意味」を奪うことになる。道元は「無理会」とする、と批判している。