第二次世界大戦の惨禍はこうして起こった…日本がおごり高ぶってしまった「当然の結果」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

第二次世界大戦の惨禍はこうして起こった…日本がおごり高ぶってしまった「当然の結果」

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こんな時代だからこそ、元気にいきましょう!  『還暦からの底力 歴史・人・旅に学ぶ生き方』には出口さんのように元気に生きるヒントが満載です。  ※本記事は2020年に刊行された出口治明『還暦からの底力 歴史・人・旅に学ぶ生き方』から抜粋・編集したものです。

日本の敗戦はおごり高ぶって開国を捨てた結果

 大久保利通を中心に政府首脳が謙虚に海外の先進事例から学び、尊王攘夷から開国・富国・強兵に方針を転換し、老中首座、阿部正弘のグランドデザインを実行したからこそ明治維新は成功したと述べました。  しかし日本はその後、開国を捨て、世界から孤立して第二次世界大戦で敗北し、国土は焼け野原と化しました。  振り返ってみると、日本は日清戦争に勝利し、伊藤博文の慧眼によって日露戦争を上手に引き分けに持ち込みました。その後第一次世界大戦にも勝利し、世界の5大国の一つとして認められました。  ところが、この頃からおごりが生じます。「うちはもう世界の一等国だ」とのぼせ上がり、軍縮会議や国際連盟を脱退してしまいました。要するに開国を捨て、富国・強兵だけでいこうと方針転換したのです。  日本には近代産業を構成する3つの資源である化石燃料、ゴム、鉄鉱石のいずれもありません。これらを豊富に産出する国であればバーター取引すればいいので、自国ファーストでもやっていけます。ところが日本には3つの資源がなく、バーター取引の基本的な材料がありません。つまり、世界と仲良くやっていかなければ国が成り立たないのです。  開国を捨て、富国・強兵だけで突っ走った結果、日本の石油備蓄はだんだん枯渇していきました。そして「このままでは石油がなくなるから、一刻も早く戦争をしなければならない」という倒錯したロジックが生まれ第二次世界大戦に突入していきました。  また、世界の孤児になったために、留学先もドイツくらいしかなくなり、世界の情報が入らなくなって、指導層のレベルが劣化していきました。  明治と昭和初期の指導者を比較すると、非常に大きな差があります。  その象徴的な存在が平沼内閣です。1939年、ヒトラーがスターリンに呼びかけて独ソ不可侵条約が結ばれると、平沼騏一郎内閣は「欧州の情勢は複雑怪奇」との声明を出して総辞職してしまいました。  日本は1936年にドイツと日独防共協定を結び、ソ連を封じ込めようとしていました。それなのにドイツがソ連と不可侵条約を結んだため、この迷文句を残して平沼内閣は総辞職したのですが、外交の世界ではそれまでの敵と同盟を結ぶことなどよくある話です。  すなわち、平沼内閣の総辞職は日本の指導層の知的水準の落ち込みを示唆するものでした。他にもこの時代の日本は近衛文麿内閣が「国民政府を相手とせず」との声明を出すなど、外交能力の衰えを示す兆候が見え始めていました。交戦相手を相手にしなくてどうやって戦争を終結させることができるのでしょう。  第二次世界大戦の惨禍は、このように開国を捨て富国・強兵に走った結果として起こったものです。  一方、戦後の日本が幸運だったのは、吉田茂が首相に就任したことです。彼は開国・富国・強兵のうち、「戦争に負けたから3つともやるのは無理だ。強兵は日米安保条約でなんとかして、開国・富国でいこう」と新たな路線を敷きました。この路線が正しかったからこそ、日本は復活できたのです。

 

本当は日本に有利だったロンドン海軍軍縮会議

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 以上のような歴史の大きな流れを理解するには、「知識×考える力=教養」が必要で、教養がないと間違った判断を下すことにもなってしまいます。  日本の歴史から、一つわかりやすい例をあげておきましょう。それは1930年のロンドン海軍軍縮会議です。これは1921~22年のワシントン会議で主力艦の保有比率を定めた米英日仏伊の5ヵ国が、潜水艦や駆逐艦など補助艦の保有割合を検討する会議でした。  ロンドン会議での叩き台はワシントン会議に準じ、当初は米英対日の保有比率が10対6でした。これに対して日本は10対7を要求し、当時の浜口雄幸内閣は交渉で粘って、10対6.975で条約を批准しました。  しかし、この結果に軍部や野党が激怒します。天皇陛下が認めた7という比率を勝手に変えたのは天皇大権を犯すものである、つまりは統帥権の干犯であると。そして浜口首相は狙撃され、それがもとで翌年に内閣は総辞職。さらに1936年、日本は軍縮会議から脱退しました。  ロンドン海軍軍縮会議に反対する人は「10対7でもギリギリなのに、10対6.975で妥協するとはなんたることだ」と考えたわけですが、当時の日本とアメリカのGDPには3倍から5倍の開きがありました。ということは、もし軍縮会議がなかったら、アメリカは日本の3倍以上もの戦艦や空母をつくれる計算になります。  さらに詳しく見ていくと、軍縮条約によってアメリカ10に対して日本は6.975の割合で軍艦をつくれますが、アメリカは大西洋と太平洋に面しているので艦隊を分けなければなりません。仮にアメリカが艦隊を半分に分けるとすれば、太平洋だけでいい日本とは5対6.975の割合になり、日本はアメリカに対し有利な立場に立てます。  だから軍縮会議があったほうが、日本にとってははるかにメリットが大きかったのです。軍縮会議がなかったら、国力の差がもろに出て不利になってしまいます。このような小学生の算数でもわかることが当時は理解されず、日本は国力に比べ圧倒的に有利だった海軍軍縮会議の取り決めを手放してしまったのです。それは国民に正確な情報が与えられていなかったことや、指導者を含めた教養のなさに根本原因がありました。  *  さらに【つづき】〈かつて日本が鎖国できた「驚きの理由」…日本が持っていなかった「たった一つのもの」〉では、日本がなぜ、鎖国をすることができたのか、その歴史的経緯をくわしくみていきます。

出口 治明(ライフネット生命創業者・立命館アジア太平洋大学(APU)学長)

 

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