『独ソ戦』著者が解き明かす第2次大戦勝敗の本質 ナチスの命運分けた重点なき「バルバロッサ」作戦(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

 

『独ソ戦』著者が解き明かす第2次大戦勝敗の本質 ナチスの命運分けた重点なき「バルバロッサ」作戦

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ヒトラーが対ソ戦の決断をしたのはいつなのか(写真:Ryhor Bruyeu/PIXTA)

 

第2次世界大戦でドイツ軍の運命を逆転させた「バルバロッサ」作戦。現代史家の大木毅氏は、この戦いは「重点なき作戦」であったという。敵の力の中心こそが「重点」であり、そこを正しく判断し、叩くことは戦略・作戦の立案に必須の要件である。その重要性は、たとえばウクライナ侵略戦争などが証明している。 しかしながら、「バルバロッサ作戦」では、その「重点」が決められなかった。それはなぜか。そしてそもそもヒトラーが対ソ戦の決断をしたのはいつなのか。大木毅氏の新著『勝敗の構造』(祥伝社刊)より一部を抜粋・編集してお届けする。

 

 

■「人格なき人間」

  戦争とは何かを追求した名著『戦争論』をものした、プロイセンの用兵思想家カール・フォン・クラウゼヴィッツは、「重点(シュヴェーアプンクト)」の概念を用いて、何が戦争の勝敗を決するファクターなのかを考察した。  クラウゼヴィッツによれば、敵のあらゆる力と活動の中心こそが重点であり、これを全力で叩かねばならない。敵の軍隊が重点であれば、それを撃滅し、党派的に分裂している国家であれば、首都が重点となるから、これを占領する。同盟国頼みの弱小国であれば、その後ろ盾となる国が派遣する軍隊が重点であるから、その主力を撃破しなければならないと、『戦争論』には記されている。

この思想はプロイセンから、同国を中心に統一されたドイツの軍隊に受け継がれた。第1次世界大戦のタンネンベルク包囲殲滅せんめつ 戦で大功を上げ、国民的英雄となったパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥などは、「重点なき作戦は、人格なき人間と同じである」とまで言い切っている。  にもかかわらず――かような思想を叩き込まれていたはずのドイツの参謀将校たちは、第2次世界大戦で重点を明確に定めることなく作戦を立案し、「人格なき人間」の振る舞いを演じた。史上最大の陸上作戦となった1941年のソ連侵攻である。当然のことながら、この侵略は行き詰まり、ドイツ軍は決定的な戦果を得られないまま、ソ連の首都モスクワをめぐる攻防戦で一敗地にまみれることとなった(ソ連の地名は歴史的なものとして、当時のロシア語呼称にもとづくカナ表記を用いる。以下同様)。

 

 

 

 

それまで連戦連勝を続けてきたナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラー、そして、選良せんりょう 中の選良であったはずのドイツ国防軍の参謀将校たちは、なぜ、かくのごとき愚行をしでかしたのであろうか。彼らの失敗の過程をたどれば、作戦立案時点ですでに決定的な誤断が内包されていたことが見て取れる。 ■練りつづけていたソ連侵攻計画  第2次世界大戦後、生き残った国防軍の将軍たちは、ヒトラーの命令への服従という軍人の義務ゆえに対ソ戦を遂行したのであって、自分たちはけっして積極的ではなかったとする伝説を流布した。けれども、その後の研究の進展により、ヒトラーの決定が下される前から、ドイツ国防軍がソ連侵攻の計画を練っていたことがあきらかにされている。

かかる動きの背景には、ドイツが西方作戦を実行しているあいだに、ソ連に背後を衝つ かれるのではないかという不安があった。1939年9月にポーランドに侵攻し、西部地域を占領したドイツは、同じくその東部地域をわがものとしたソ連と国境を接することになっていたのである。両国間には不可侵条約が存在していたが、ドイツはそれを信じて安心するほどナイーブではなかったのだ。結局、ドイツ陸軍総司令部(OKH)は、1939年から40年にかけて西部戦線で英仏連合軍と対峙しているあいだ、さらにはその後も、ソ連がドイツに侵攻してきた場合の作戦計画を練りつづけていた。

 しかし、当初は防衛を主眼に置いていた作戦は、ドイツの西方侵攻によりフランスが戦争から脱落したのちに、積極的な色彩を帯びはじめる。1940年7月3日、陸軍参謀総長フランツ・ハルダー砲兵大将(同年7月19日、上級大将に進級)は、OKH作戦部に対ソ戦を検討するよう指示した。ドイツ陸軍首脳部は、ヒトラーと同じく、ソ連を倒せば、さしもの頑強なイギリスも希望を失い、講和に応じるのではないかと考えはじめていたのである。

 翌4日、ハルダーは、ドイツ東部の防衛を担当する第18軍の司令官と参謀長を呼び、国境にソ連軍の大兵力が集結していると告げた上で、攻勢計画の立案を命じた。これは、7月22日付「第18軍開進訓令」に結実する。そこには、ソ連がドイツに侵攻した場合のみならず、死活的に重要な石油を産するルーマニアに脅威をおよぼしたときにも、「紛争」に突入すると想定されていた。こうして、国防軍が対ソ戦を視野に入れはじめたところに、ヒトラーの意思決定が重なっていったのである。

 

 

 

 

 加えて、ドイツ国防軍にはソ連軍の実力軽視、それも根拠のない過小評価があった。1940年7月21日に開かれた会議で、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥は、ソ連軍が使用し得る優良師団は50個ないし75個程度と予想されるから、作戦に必要なのはドイツ軍80個から100個師団ほどだろうと述べた。驚くほどの楽観であるけれども、これが当時のドイツ軍に蔓延していた暗黙の了解なのであった。 ■具体化する作戦計画

 いずれにせよ、かかる「空気」のなかで、ソ連侵攻作戦の立案が進められていく。初期の検討を経て、ハルダーは7月29日に、第18軍参謀長エーリヒ・マルクス少将に、独自の作戦計画を起案するよう命じた。マルクスは、8月5日から6日にかけて、ハルダーに報告と説明を行い、のちに「マルクス・プラン」と通称されることになる作戦計画を提出した。  この作戦案は、ドヴィナ川北部、ヴォルガ川中流域、ドン川下流域を結ぶ線を到達目標とし、食糧・原料供給地であるウクライナとドニェツ川流域、軍需生産の中心地モスクワとレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)を占領するという壮大な計画であった。注目すべきは、政治的・精神的・経済的な中枢であるモスクワの占領と、それにともなう敵軍の崩壊により、ソ連は解体するとされていたことであろう。

 本稿冒頭に示したクラウゼヴィッツの概念にしたがうなら、ハルダー以下のドイツ陸軍首脳部は、首都モスクワこそがソ連の「重点」だと考えていたのである。  なお、マルクス・プランでは、これだけの大作戦を、9ないし17週間で完遂するものとしていた。当時のドイツ軍が、いかに自らの能力を過信していたかを示しているといえよう。  一方、ドイツ国防軍最高司令部(OKW)でも、国防軍統帥幕僚部長(作戦部長)アルフレート・ヨードル砲兵大将が、OKHとは別の視点から対ソ戦を検討するように、部下のベルンハルト・フォン・ロスベルク中佐に命じていた。

 

 

 

 9月15日、ロスベルクが完成させた「東部作戦研究」なる報告書(通称「ロスベルク・プラン」)では、ソ連軍が取り得る作戦を考慮した上で、敵の対応策でもっとも危険なのは、国土の深奥部まで退却し、ドイツ軍が補給の困難に苦しみはじめたあたりで反攻に出ることだとされていた。まずは妥当な考察といえる。  ただし、それに対するロスベルクの方策は、やはり作戦レベルの処方箋でしかなかった。ヨーロッパ・ロシアを南北に分けている巨大な湿地帯(プリピャチ湿地)の北に2個軍集団を配し(この兵力配分は、「マルクス・プラン」においてもほぼ同じだった)、その南側の軍集団に快速部隊を集中してモスクワに突進させつつ、プリピャチ湿地の南方に総兵力のおよそ3分の1を投入、前進させる。北の2個軍集団と南の1個軍集団は、前面のソ連軍が東方に逃れるのを阻止しながら進撃、プリピャチ湿地の東で手をつなぎ、全戦線にわたる攻勢に出る。最終目標とされたのは、アルハンゲリスク、ゴーリキー、ヴォルガ川、ドン川を結ぶ線であった。

 このように、「ロスベルク・プラン」はソ連軍主力を重点とみなす作戦案であり、モスクワを重視する「マルクス・プラン」とのぶれが生じていたといっても過言ではあるまい。 ■決められなかった「重点」  1940年9月3日、ハルダーは、陸軍参謀次長フリードリヒ・パウルス中将に、マルクス・プランほか、OKHで検討されたいくつかの作戦案を総合し、包括的な計画を作成するように命じた。パウルスは、モスクワこそ最重要目標だとするハルダーの判断をもとに計画案を作成、10月29日に提出したのち、その有効性を検討するために、12月初旬に3回の図上演習、今日の言葉でいうシミュレーションを実施する。

ところが、図上演習が終了する直前、12月5日にOKHの作戦企図きと が報告された際、ヒトラーは、重要きわまりない判断を開陳した。モスクワの早期占領はさほど重要ではないとし、プリピャチ湿地の北にある軍集団に包囲殲滅戦を実行させ、しかるのちに南北にそれぞれ旋回させて、バルト三国とウクライナにある敵を撃滅するとの構想を示したのだ。そうして、ソ連軍主力が消滅したのちには、モスクワはおろか、ヴォルガ川やゴーリキー、アルハンゲリスクまでも一気に進撃できるというのがヒトラーのテーゼであった。

 

 

 

 ヒトラーは対ソ戦において、軍事目標よりも、政治的・経済的な目標を重視したとは、しばしばいわれるところである。しかし、この時点のヒトラーは、根拠のない楽観にもとづき、ソ連軍主力が重点であるが、これを撃滅するのはたやすいことで、その後、モスクワほかの重要地点を占領すればよいと考えていたらしい。  しかも、ハルダー陸軍参謀総長以下のOKH首脳部は、ヒトラーの判断には反対だったとする戦後の主張とは裏腹に、その指示を受けて、作戦案を修正した。あるいは、作戦を発動してしまえば、モスクワを最優先目標とするよう、総統を説得できると楽観していたのかもしれぬ。

 けれども、このような議論を経ない妥協の結果、先に触れた12月18日付の総統指令第21号ならびに、作戦の詳細を指示した1941年1月31日付の「バルバロッサ作戦開進訓令」は、最重要目標がモスクワなのか、ソ連軍主力なのか、あるいはそれ以外の重要地点なのかを明示しない、曖昧なものとなった。  「バルバロッサ」作戦は、重点を持たない「人格なき人間」になったのである。 ■先細りの攻勢能力  1941年6月22日、ナチス・ドイツはソ連邦への侵略を開始した。

 奇襲により、ソ連機多数を地上で撃滅し、航空優勢を得た空軍の支援を受け、装甲部隊を先鋒としたドイツ軍は破竹の勢いで進撃した。ドイツ軍の侵攻はないと誤断した、赤い独裁者ヨシフ・V・スターリンが、たび重なる現場の戦闘準備要請を握りつぶしていたこともあって、不意打ちを受けるかたちになったソ連軍部隊は、つぎつぎと撃滅されていく。  しかし、こうした戦果も、実は暗い影をひきずっていた。というのは、かくも華々しい進撃でさえも、可能なかぎり国境付近でソ連軍主力を捕捉・撃滅し、奥地への撤退を許さないという「バルバロッサ」作戦成功の大前提を満たすには不充分だったからである。

 そのような事態が生じた理由は、いくつかある。ソ連軍将兵は、ドイツ装甲部隊に寸断され、通信・補給線を切られても、いっこうに降伏しようとはせず、頑強に抵抗しつづけたのだ。かような小戦闘での損害は、個々にはわずかなものであったとはいえ、しだいに累積していき、ドイツ軍の戦力を削いでいった。  また、ロシアの地形も、ドイツ軍の前進にブレーキをかけた。道路によっては、脆弱で装甲車輛の重みに耐えらず、陥没してしまうものさえあった。ゆえに、ソ連軍主力の捕捉撃滅に不可欠の高速機動など望むべくもなかったのである。

 

 

 

 さらに、補給の問題もクローズアップされてきた。ソ連の鉄道はヨーロッパ標準軌と軌間が異なるため、列車輸送を行うにはレールの工事が必要となるが、それには時間がかかる。そのため、前線部隊が進めば進むほど、鉄道線の補給端末との距離は遠ざかるばかりとなったのだ。この前線と鉄道端末のあいだの補給線は、自動車部隊の輸送によって維持されていたが、そうした即興的対応もしだいに困難になる。  かかるマイナス要因が累積した結果、ドイツ軍、とりわけ装甲部隊の消耗は危険な水域に達した。7月のスモレンスク包囲戦における勝利など、表面的には華々しい戦果を上げていたものの、ドイツ装甲部隊が有する稼働戦車の数は減る一方であり、攻勢能力は先細っていくばかりだったのだ。

■モスクワか、南方資源地帯か  こうした状況に直面し、ヒトラーと国防軍首脳部も、ソ連軍主力を重点とし、これを国境会戦で潰滅させたのちに、ヨーロッパ・ロシアを手中に収めるとの構想が実現不可能になったことを知った。  では、これからどうすればいいのか?  ヒトラーは、8月21日、モスクワ進撃を唱えるOKHの反対を一蹴し、中央軍集団麾下きか 第2装甲集団のキエフ転進を命じた。このときヒトラーは、重要なのは、クリミア半島やドニェツ工業・炭田地帯の奪取、コーカサスからのソ連軍に対する石油供給の遮断、レニングラードの孤立化だと述べている。少なくともヒトラーは、経済的目標がソ連の重点であると判断したわけだ。

 ところが、南進を命じられた第2装甲集団司令官ハインツ・グデーリアン上級大将は、名うてのモスクワ重点論者だったから、ここに言葉の決闘が生起する。8月23日、中央軍集団司令部に呼び出されたグデーリアンは、そこに来訪していたハルダーから、モスクワよりもウクライナの征服を優先するというヒトラーの決定を聞かされ、猛然と反対する。グデーリアンはそのまま、ハルダーとともに、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」に向かい、ヒトラーに異論を唱えた。

 

 

 

 重点は経済的に重要な地域であるか、それとも、戦略的な目標である首都モスクワなのかをめぐる議論であったが、ヒトラーは後者を拒否し、南方進撃を命じた。  このヒトラーの決断は、モスクワ攻略作戦の発動を遅延させ、首都の奪取を不可能とした致命的なミスだということが、しばしばいわれてきた。だが、今日では、中央軍集団の補給は深刻な状況にあり、グデーリアンのいうような即時モスクワ進撃は不可能であったから、同軍集団南翼にあり、しかも鉄道線の占領・修復が比較的進んでいた戦区に位置していた第2装甲集団を南下させることは、唯一実現可能な選択肢であったとする説が有力である。

 しかし、モスクワこそがソ連の重点であるとのドイツ陸軍首脳部の主張も、「バルバロッサ」作戦立案過程を検討すればわかるように、けっして政治的・経済的な影響力を十二分に考量したものではなかったのだ。  いずれにせよ、ヒトラーの転進決定により、ドイツ軍は再び大きな戦果を上げた。スターリンがキエフ死守を命じ、撤退を許さなかったこともあって、ソ連軍は大損害を出した。9月下旬のキエフ戦終了までに、約45万の兵員を擁する4個軍が潰滅したのである。

■「台風(タイフーン)」作戦  ドイツ軍はキエフ包囲戦に勝利し、ウクライナ征服の見込みを確実なものとした。また、この間に北の重要都市レニングラードを孤立させ、包囲下に置くことにも成功している。こうして、東部戦線の南北両翼が安定したのをみたヒトラーは、ついに将軍たちに同意し、モスクワ攻略「台風(タイフーン)」作戦の実施を認めた。  だが、結論を先取りするならば、このモスクワ攻略作戦は、発動前から失敗を運命づけられていた。ここまでの戦いで、ドイツ軍は弱体化しきっており、首都攻略に必要な打撃力を失っていたからである。季節もまた、泥濘の秋、ついでロシアの厳しい冬と、大規模な軍事行動には不向きな時期に突入していた。さらに戦略的にみるならば、作戦が成功し、モスクワを占領したところで、それがスターリン体制の崩壊、対ソ戦の勝利に直結する保証など、どこにもなかったのである。

 12月5日、そうして疲弊しきったドイツ軍将兵に、満を持したソ連軍が襲いかかる。極東から増援されたシベリア師団や、T‐34戦車などの新型兵器を投入しての反攻を支えきれず、ドイツ軍は無惨に敗走していく。  重点なき作戦は、その軽率さにふさわしい結末を迎えたのであった。

大木 毅 :現代史家

 

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