西田幾多郎は白隠禅である。

坐禅をしない人間には、理解はできない。

 

真理・悟り・見性成仏は、言葉では表現できない

という「事実」が存在する。

 

「場所の論理」は、「道・ダオと主体との、ダイナミックな関係」を、

不完全な道具、中国語、日本語、・・・で、表現したものである。

 

白隠禅⇒中国禅⇒老荘思想⇒東洋思想!

つまり、「道・ダオと主体との関係性」に帰着する。

 

 

西田幾多郎に田辺元、三木清…日本の哲学がギリシア哲学、フランス哲学に負けていない「意外な理由」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

 

西田幾多郎に田辺元、三木清…日本の哲学がギリシア哲学、フランス哲学に負けていない「意外な理由」

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現代ビジネス

 哲学という言葉でどのような印象が浮かぶだろうか。どこか難解で、複雑な思考を要するものという印象を持つ方が多いように思う。  近年では哲学や文学のような人文学の分野よりも、法学や経営学に代表される実学を重要視する考えが広くみられるようになった。  しかし、哲学は古代から連綿とつながれてきた先人たちの知恵が詰まった学問である。  実学が重要視されるこの時代に、哲学を学ぶ意義を再認識しよう。

 

 

  (※本記事は『日本哲学入門』から抜粋・編集したものです。)

 

  西田幾多郎田辺元三木清九鬼周造和辻哲郎…そもそも日本の哲学を学ぶ意義はいったいどこにあるのだろうか。それを知ることで何を得ることができるのであろうか。そのような疑問を抱く人もいるかもしれない。  簡単に答えることのできない難しい問題である。その点について考えるために、かつて私が日本哲学史の講義をしていたときに、一人の学生から受けた質問を手がかりにしたい。その学生は、哲学は普遍的な真理をめざすものであり、それに「日本の」という形容詞を付するのは適切なのだろうかという質問をした。もっともな質問であると思う。

 

  確かに哲学は、その成立以来、普遍的な原理の探究をめざしてきた。

しかし普遍的な原理の探究であることは、

ただちに使用される言語の制約から自由であるということを意味しない。

 

私たちの思索は、私たちの文化・伝承の枠のなかでなされるのであり、一つ一つのことばのズレ、その集積としてのものの見方や文化そのものの差異が、「真なる知」を問う問い方、答えの求め方に影響を及ぼさないとは、とうてい考えられない。

 

  ギリシアの哲学と、それを受け継ぐヨーロッパの哲学こそが唯一の哲学であるという考え方もあるが、私はギリシアの哲学もフランスの哲学もドイツの哲学も、それぞれの言語を用いてそれぞれの文化・伝承の枠のなかでなされる営みであり、その制約から自由ではないと考えている。  どのような問題について論じるのであれ、それぞれの長い歴史のなかで形作られてきた自然や神、人間や歴史をめぐる理解を踏まえて答が探究されていくのであり、そうした前提からまったく離れた──言わば無菌の──時空間のなかで思索がなされるわけではない。

 

  私たちの知は私たちがものを見る視点の影響をつねに受ける。言いかえれば、私たちがものを見るとき、つねにその視点からは見えないもの、あるいはその視点設定のゆえに覆い隠されるものが生まれる。

そのとき重要なのは、異なった見方を否定したり、排除したりすることではなく、それと対話することである。

 

 

  日本の哲学はその対話に大きな寄与をすることができる。伝統を背負いながら、自ら主体的に思索するからこそ、他の文化・伝統のなかで成立した哲学と対話することができるし、哲学のより豊かな発展の可能性を見いだしていくことができる。 哲学とは私たちのものの見方や考え方に対する反省であると言うことができる。私たちがどのように物事をとらえ、どのように感じ、どのように考え、どのように行為しようとしてきたのか、あるいはしようとしているのかを知る営みである。日本の哲学者たちの思索はこの営みの軌跡である。

 

  それは、いまを生きる私たちにとって無縁のことではなく、深い関わりをもっている。日本の哲学者たちの営みから私たちは私たちがどのように生きてきたのかを知る手がかりを得ることができるであろうし、それはまた、私たちがどのように考え、どのように行為すればよいかを考えるためのさまざまな示唆を与えてくれる。

藤田 正勝

 

 

 

 

 

日本哲学の開拓者、西田幾多郎がこじ開けた『善の研究』の次の扉

櫻井 歓

近代日本における「個の自覚」という同時代的な課題を背負いながら、〈自己と世界の関係〉を説明しようとしてきた思想家・西田幾多郎。その思想はどのようなもので、現代社会の課題を考える上でどのような意味があるのでしょうか。

西田の思想を読み解いた

現代新書100の新刊『今を生きる思想 西田幾多郎 分断された世界を乗り越える』より、

西田の重要概念である「自覚」の立場について解説したパートをお届けします。

 

西田哲学の展開——「自覚」の立場

西田は1910(明治43)年から1928(昭和3)年まで京都帝国大学に在職した。

この18年の間に、哲学的探究の立場としては

「純粋経験」から「自覚」、

そして「場所」の立場へと発展させていった。

 

西田の思索は生涯にわたっていくつかの発展をみせたが、一つの根本的立場を設定して

そこからすべてを説明しようとする姿勢は一貫していた。

 

実在の探究(世界の真の姿を見極めること)を一つの根本的立場から進めるという、

根源への志向性において一貫していたといえる。

 

その根本的立場を表明するキーワードが思索の過程で変化していったのである。

 

『自覚に於ける直観と反省』(1917年)は、京大着任後に約4年(1913〜17年)の歳月をかけて書き継がれた論文を一冊にまとめて出版された著作である。ここで示されたのが「自覚」の立場であるが、その思索は西田にとって厳しく苦しいものだったようである。同書の「序」で彼は次のように語っている。

「此書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドキュメントである。幾多の紆余うよ曲折の後、余は遂に

何等の新らしい思想も解決も得なかったと言わなければならない」(『西田幾多郎全集』第2巻11頁)。

著者の溜息さえ聞こえてきそうな落胆の言葉である。

こうした西田の悪戦苦闘を通じて明らかにされたのが「自覚」の立場である。

 

 

 

 

「直観」「反省」「自覚」

西田はこの本で、

主客未分の純粋経験と、

主観と客観の二分法によってそれを捉える反省的思惟しい

の関係を説明することを課題とした。

 

つまり、私たちが夕日を見て「ハッ!」としたり、我を忘れて楽器の演奏に没入したりすることと、こうした体験をふり返って考えることとの関係はどのようになっているのか。それを明らかにすることが課題となったのである。

 

「自覚」の立場はこれを解決するものだった。『自覚に於ける直観と反省』の「序論」の冒頭では次のように書かれている。

「直観」「反省」「自覚」という三つの言葉に注目しながら読んでいただきたい。

直観というのは、主客の未だ分れない、知るものと知られるものと一つである、現実そのままな、不断進行の意識である。反省というのは、この進行の外に立って、ひるがえって之を見た意識である。〔……〕/余は我々にこの二つのものの内面的関係をあきらかにするものは我々の自覚であると思う。自覚に於ては、自己が自己の作用を対象として、之を反省すると共に、かく反省するということが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。反省ということは、自覚の意識に於ては、外より加えられた偶然の出来事ではなく、実に意識其者そのものの必然的性質であるのである。(『西田幾多郎全集』第2巻13頁)

 

 

ここで「直観」といわれているものが『善の研究』での純粋経験に相当する。

これに対して「反省」は直観の外側からこれを見た意識だとされ、

主客の二分法による反省的思惟のことである。

 

西田によれば、直観と反省との関係を明らかにするものが「自覚」だという。

自覚においては、自己が自己の作用(働き)を反省するとともに、

反省することによってものの見方が無限に深まっていく。

 

そこでは反省は外から加えられたものではなく、むしろ直観と反省を両方とも含んでいる。

西田は純粋経験(=直観)に対する反省を含み込んだ、

より包括的な立場として「自覚」の立場を構想したのである。

 

 

 

 

一つの到達点としての「場所」の立場

「自覚」をめぐる思索は西田にとって険しいものだったが、

その探究を突き進めた先に到達したのが「場所」の立場である。

 

1926年、西田は「場所」という論文を発表したが、門下生の務台理作に宛てた手紙のなかで、

「私は之によって私の最終の立場に達した様な心持がいたします」

(『西田幾多郎全集』第20巻169頁)と同論文についての所感を述べている。

 

「私の最終の立場」といえるほど新しい境地を拓くものと感じられたのである。

西田の思索はその後も発展を遂げたので、実際には最終の立場とはいえないが、

「場所」の立場は彼の思索の大きな発展を示すものであり、その後の思想展開のベースとなるものであった。

 

当時、西田の二つの論文「働くもの」と「場所」について、次のような評価がなされた。

 

「余は既に其の学説を呼んで博士の名を冠して『西田哲学』と称するに

値する程其の体系を整えたるものありと考える」(左右田そうだ喜一郎「西田哲学の方法に就いて」)。

 

つまり、「場所」の立場に到達した西田の哲学的思索の体系性によって「西田哲学」と呼ばれたのである。

 

 

 

 

 

「無」を説明しようとした西田哲学

1927年、『働くものから見るものへ』と題された西田の論文集が出版された。

彼が57歳の年である。

論文「働くもの」も「場所」も同書に収められている。

この本の「序」で、西田は自らの立場を次のように述べている。

 

有るもの働くもののすべてを、自ら無にして自己の中に自己を映すものの影と見るのである、

すべてのものの根柢に見るものなくして見るものという如きものを考えたいと思うのである。

(『西田幾多郎全集』第3巻255頁)

 

抽象的な表現でありながら、ここには西田の「場所」の考え方と、

それと結びついている「無」の考え方がよく表れている。

また「自己の中に自己を映す」という言葉からは、

彼の思索が「自覚」の立場から発展したものであることが読み取れる。


また同じく「序」の終わりでは次のように書いている。

形相けいそうとなし形成を善となす泰西たいせい文化の絢爛けんらんたる発展には、

とうとぶべきもの、学ぶべきものの許多あまたなるは云うまでもないが、

幾千年来いくせんねんらい我等の祖先をはぐくきたった東洋文化の根柢には、

形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが潜んで居るのではなかろうか。

我々の心はかくの如きものを求めてまない、

私はかかる要求に哲学的根拠を与えて見たいと思うのである。(『西田幾多郎全集』第3巻255頁)

 

西田は「有」を根本とする西洋文化に対して、

東洋文化の根底にはいわば「無」の考え方が潜んでいるとみている。

東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」といった、

「無」を求めるような要求があるのだが、

それを言葉によって筋道を立てて説明してみたい

西田の言葉はおおむねこのように読み取れる。

 

その意味で彼の哲学は、「無」というものを

言葉を使って説明しようとしたという性格をもっている。

西田は東西の両文化に刺激を受けながら、

より根本的な立場から世界を説明しようと独自な哲学的思索を展開したのである。

 

 

 

 

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