米中双方の行動論理の背景に潜む「思考のクセ」 「敗戦国の日本」はどのように振る舞うべきか(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

米中双方の行動論理の背景に潜む「思考のクセ」 「敗戦国の日本」はどのように振る舞うべきか

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東洋経済オンライン

「民主主義と権威主義」、「アメリカ」と「中国」の覇権のゆくえ、そして日本はどこに向かうのでしょうか(写真:sangaku/PIXTA)

疫病と戦争で再強化される「国民国家」はどこへ向かうのか。拮抗する「民主主義と権威主義」のゆくえは。思想家の内田樹氏が、覇権国「アメリカ」と「中国」の比較統治論から読み解いた著書『街場の米中論』が、このほど上梓された。本稿では、世界中で「内戦」が急増している現状とその原因、アメリカでも内戦が勃発する潜在性が高まっている状況を分析・警告した『アメリカは内戦に向かうのか』(バーバラ・F・ウォルター著)の訳者・井坂康志氏が同書を読み解く。

■「想像力の栓」としての読書  型にはめないこういう本が好きだ。型にはめないどころか、いつの間にか脳内にねじこまれたきついキャップを抜いてくれる。どんな読み方をしても怒られない。それは「想像力の栓」としての読書である。ぴんとこないところを飛ばして読もうが、何度も線を引いて考え込もうが自由だ。ネットを含むほかの「慌ただしい」情報源とは一味違う。  ただし、いささかの難点もある。その記述の1つひとつは固有の洞察と理解を与えてくれるように私には思える一方、あまりに「自由」すぎて、風をつかまえるような困難も覚える。いつの日か著者による全集(もしくは著作集)が編まれるとき、出版社の担当者は、各巻の分類にそうとうに苦労するだろう(大きなお世話だが)。

 そこで、私としては、いくつか印象に残ったポイントを拾ってみることで書評に代えたいと思う。  米中関係とは、しかるべき歴史の積み重ねの結果できた「強い」論理の1つである。現在、二国関係は世界の巨大変電所の役割を果たしている。そこから送電されたエネルギーがほかの多くの国や地域に否応なしに変えてしまう。  もっぱら著者が関心を示すのは、国家としての米中関係よりも、メタ・インフラとしての米中関係のように見える。現代を取り巻く問題群の背景には、米中を取り囲む膨大なフローの関係性が控えている。そうした全域的なフローが局所化と渋滞を招くのは、政治でも経済でも軍事でもない。両者の集団主観的な思考の「癖」なのだ。

 

 

 

 「癖」を考えるには、固有の文脈にフォーカスする視点も必要になる。  戦後は、「世界のアメリカ化」と「アメリカの世界化」が並行的に起こった時代である。このような現象は、何か単一の論理に帰着するものではなく、2つもしくはそれ以上の論理の間で揺らいできた。  「アメリカは建国から250年かけて、『政教分離以前の段階』に退行してしまったかも知れない」(p.80)  アメリカという変電所自体の変調を巧みにとらえていると思う。アメリカという国はこの1世紀の間、フローの処理装置としての能力はすでに限界に達しているというのが著者の見立てである。

■アメリカの弱さと強さである「イノセンス」  私はここを読んだとき、もしかすると米中関係とは巷間考えられるのとはまるで違うのかもしれないと思った。  著者はアメリカの持つ宗教的性格とそれに伴う理念的性格をことさら取り上げている。自由と平等は目的が交錯しており、それに伴う渋滞が恒常的に発生しがちなポイントと見る。  「このある種の『イノセンス』がアメリカの弱さであり、強さでもあると僕は思います」(p.31)

 ここでやはりというべきか、お得意の「葛藤論」を繰り出している。  「アメリカの統治システムは自由と平等という2つの原理の葛藤によって政情が不安定になると同時に、そこから活力を得てもいます。葛藤は人を成熟させる」(p.180)  葛藤は人を成熟させる──。なんと美しくも含蓄に富む一文だろう。  アメリカの潜り抜けてきた葛藤ぶりは、その中心性を構成すると同時に、世界に指導力を発揮させるうえでの電炉として作用してきた。ここは目に見えないボトルネックの働きだ。

 著者は、そのような背景の1つとして、「国民国家の液状化」とそれへの疑念を提示している。さしあたり国民国家の歴史は意外に新しく、せいぜいのところ17世紀あたりまでにしか遡れない。宗教戦争の結果として、民族自決の原則や、資本主義、言語の統一など、いわば国家が発送電機関として作用し始めて以来である。  新たに巨大な変電所が建設されたようなもので、一方的なエネルギーの備給によって世が成立していた。いつしか世は線形に発展していくような楽観的な見方が支配していたのはつい昨日のことである。

 

 

 

 だが、「大きな物語」は終焉した。少なくとも、そのような見方が出てきた。いわゆるポストモダン論である。

 

ある特定の何かを目指して人々は生きているのではなく、

それぞれの小さな無名の人々が世を通り過ぎ、

その過程で一時停止したり沈思黙考するのが現代なのだと。

 

  これは

デオロギーとかイズムの巨大な枠組みが決定要因なのではなく、

1人ひとりの自由な考えや行動でこの世は成り立つとの世界観になるだろう。

 

それは闊達な意見交換を可能にしてくれる一方で、

「小さな物語」の膨大なフローとして成り立っているがために、

陰謀説の温床ともなる。

実はこれが現代という時代の宿痾なのだ。

 

 「『風が吹けば桶屋が儲かる』という事実から

『桶屋には気象を操作する超能力がある』と推論することはふつうはしません」(p.113)

 

  実に小気味いい。確かに、桶屋は風を「経由して」儲けるという言い回しを、

桶屋が風を操作していると類推するなら、それは致命的とも言える認知の歪みである。

何かことが起こると特定集団が裏で糸を引いているとか、

自然災害が人為的に起こされたとか、

この種の意見はネットでは日常になっている。

 

 

 理念の国アメリカばかりでなく、世界を脅かしているのはこのような誤作動だ。著者はこのような状況を「ポストモダニズムの劣化」と呼んでいる。

 

 ■日本はどう振る舞うべきか

 

  誰もが思いつくのはSNSだろう。情報共有がかくまで普及した現状では、今ここにいながらにして、世界中のあらゆる情報にアクセスできる。現代のテロリストが手にしているのは、銃器よりスマホである。  もとはボタンの掛け違いにすぎなくとも、その規模が更新と増設の履歴を経るほどに、破壊的性格の重みを増しているのが現代だ。そうした歪みは、もともと渋滞地帯だったところに、そこに連なる類似した大衆を呼び込み、さらなる交錯地帯を形成していく。

 

 

 やはりそこで考えざるをえないのが、「その中で日本はどう振る舞うべきか」との問いであろう。著者の問題意識には、この問いがつねに遠心力として働いているように見える。

 

  戦後アメリカを上司に戴き、ある時期一方的に高度成長を遂げてきた。アメリカという変電所と送電網の存在が、発展にとって有利な条件として働いたのは間違いない。だが、第2次大戦後、戦勝国と敗戦国との間で設定されたレジームを貫く送電網は、やがて米中を取り囲む名前を持たないルートへと編入された。

 

 

 

 

 

■「この難問を君ならどうする?」

 

  これら一連の盛衰は、日本の歴史的・地政的な偶有性と、日本が米中の中継を行ってきた固有性の間の葛藤の中で形成されてきたものでもある。  ただ1つ言えることがあるとすれば、日本は日本なりの葛藤を苦しんできたという事実である。  著者は次のような挑発的な言葉を綴っている。

 

 

 「僕は政治の行き先を予想するときは、自分はその国の若手官僚であると想定して、もし上司から『この難問を君ならどうする?』と訊かれた場合にどんなレポートを書いて出すかを想像してみることにしています。僕自身の利害損得や好き嫌いは脇において、課題を出された当事者の気持ちになって考えてみる」(p.190) 

 

 

 少なくとも、固有の葛藤もまた、従来の工業化や産業化と異なる意味合いで、熱源として利用できるならば、多少楽観的な見方もできなくはない。それができないのなら、見えざる廃墟の上でひからびた日常に沈んでいく予測のほうがリアルだろう。

 

 

 そこで話は初めに戻る。

 

  この本は、特定の命題を論証しようと試みてはいない。著者自身もしばしば言うように、「誰も言いそうもないこと」を選択的に述べている。そこにはつねに挑発の臭いがするし、読者に考えるよう仕向けている。望みさえすれば、頭脳に深く差し込まれた「栓」を抜く作業を手伝ってくれる。

 

  そこがこの本の効能だ。

「想像力の栓」を抜いてくれる本だ。その観点からこの著者が今を生きる稀有な論者の1人であることは間違いない。

少なくとも私はそう思う。

そんな著者による全集や著作集の編まれる日が1日でも先延ばしされることを願わざるをえない。

井坂 康志 :ものつくり大学教養教育センター教授

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