如浄禅師の坐禅の指導が、過酷に極まったのは、

「煩悩」を脱落させるためだったからである。

 

古い仏教の天台宗の「止観」の坐禅だった。

「心塵脱落」

「煩悩」は。強く深いから、坐禅の修業が、過酷に成る。

人間の耐性を越えてしまう。

 

他方、

道元は、「原始仏教」の坐禅だから、静かなものであり、緩やかなものであり、

深く、頭脳の活動を、不活性化させて、次々と、機能停止に追い込むものだった。

 

釈尊は「放楽、放逸」も「苦行」も、両方を避けられた。

だから、過酷な「坐禅」修業は「非仏教」である。

 

「只管に打坐」とは、「坐禅」そのものに専心して、

それに「余計なもの」を付加しないことである。

「坐禅」は、「立派だ」「人に真似できない過酷さ、超人」「精神的安定」「度胸」・・・

そうではなくて、

ただ静かに「坐禅」して、不断に行っている「思考」を止めるだけ。

 

 

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今日、1月15日、月曜日、NHKの「Eテレ」0時45分~1時37分

「NHK特集 永平寺 厳寒の冬 ある日」は、

道元への無理解、「江戸時代の、死後400年後の虚構の世界」であった。

その証拠に、

なんと「朝課」で、全員が、

『法華経』への後世の追加不純物「観音経」を唱えていた。

更には『般若心経』も。これは後期「密教経典」である。

 

これを行っているのは「非道元」である「日本達磨宗」だから、

必要になるのである。

 

「非道元」の行為を行っていて、その本人は「道元」の通りと信じている。

これは、無意味な行為なのか、

しばし、考えた。

 

人間は、「実際に行った行為で」、その「結果」を、自分で受ける。

 

問題は、その修業を行った「僧」が、間違いの再生産を行う側に育っていく、

そして、その寺院の「檀家・信徒」も、そのように洗脳されていく。

 

このNHKのディレクターが「ステレオタイプで永平寺を見る」、

そこから、TVを見ている視聴者までが、そのまま洗脳されていく。