フランスの哲学者で美術史家が説く「イメージの見方」(クーリエ・ジャポン) - Yahoo!ニュース

 

フランスの哲学者で美術史家が説く「イメージの見方」

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クーリエ・ジャポン

(写真:クーリエジャポン)

哲学者であり、フランス美術史家のジョルジュ・ディディ=ユベルマン(70)は、現代文化におけるイメージの使用と意味に係る倫理的、政治的、象徴的側面の解釈の権威だ。

 

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たとえば、狂気に対する私たちのビジョン(『ヒステリーの発明: シャルコーとサルペトリエール写真図像集』)、ナチスの強制収容所の囚人からなる労働部隊で同胞のユダヤ人を「最終的解決」へと導かなければならなかったゾンダーコマンドが撮った火葬現場の写真を見せることの意義(『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』)、社会的抗議における私たちの行動の重要性(展示会『反乱』)について書いている。一方、新著『想像する。再開する』(未邦訳)では、政治的想像力の人類学を掘り下げる。 ディディ=ユベルマンはインタビューで断固とした態度を貫き、言葉の表現において極めて厳密であると同時に、豊かな発想を展開した。

私たちに必要なのは「批判」できるようになること

──あなたは芸術界の常識に納得のいかないものを感じており、芸術はもっと別の姿勢をとるべきだと考えていますね。 芸術表現の歴史は長く、そこには伝統があります。私は伝統との訣別を訴えているわけではありません。私が主張しているのは順応主義からの脱却です。何かを問いただすことは、過去のすべてを陳腐化することではありません。陳腐なものなど何一つありません。 ですが、ある伝統が硬直化して順応主義がはびこるようになると、厄介なことになります。私はさまざまなテーマについて「読み直すこと」に関心を持っています。子供のように、新たな目で見て順応主義から抜け出すのです。

 

      ──「読み直すこと」は政治的な行為だといっていますね。 精神科医であり思想家のジャック・ラカンは何と言ったでしょうか?「フロイトを読み直している」と言いました。では哲学者のジル・ドゥルーズは?「スピノザとニーチェを読み直している」と言いました。私は新しい発見をするために、読み直しています。マルクスを再発見させてくれるミゲル・アバンスールの再読をお薦めします。プラトンですら、まだ隅々まで読み尽くされていません。 ──あなたにとって「イメージ」とは何ですか? 一つのイメージが、それ単体で存在することは決してありません。問いの立て方が間違っています。一つのイメージは、常に複数のイメージのなかの一つです。重要なのは、そのイメージが一連のイメージのなかでどの位置にあるかです。「イメージの存在論」というものはありません。私の地位はごく低く、2、3枚の写真を見て、何か具体的なことを推論しようと試みるだけです。あなたの質問には、お答えできません。 ──では、改めて伺います。一連のイメージを見るとき、どのような点に注目するのですか? それはまるで、人に何を期待しているのかと聞いているようなものです。もしある人について何か具体的なことを知りたければ、出会い系アプリを使って、その人は、ランニングが好きか、乗馬が好きかなどを調べるでしょう。けれども、そういうことではありません。私が人に期待するのは、驚きです。 私たちは、イメージが過剰に溢れる世界に生きています。けれども一つのイメージを前に私たちが期待するのは人のときと同じで、意外性です。私が探すのはそれです。感情を揺さぶるもの、順応主義からの脱却です。 ──人が美しいものに惹かれるのは、心に抱く恐怖のため、この世の恐怖を拒絶するためであることが多いと言いましたね。 ボッティチェリの作品を見にプラド美術館を訪れると、男がナイフで女の背中を引き裂き、取り出した心臓を犬に食べさせる場面を描いた絵に出会います。この絵を観察すると、この作品の美しさは、この世の恐怖からできていることがわかります。芸術では、私たちを惹きつけるものと不快にさせるものが常に同居しています。

 

 

もう一つの例がゴヤです。ゴヤの作品は美しいでしょうか、

それとも美しくないでしょうか? 

 

──「政治的想像力はゴヤとともに生まれた」とあなたは言いました。 ある特定の瞬間に何かが生まれた、ということは決して言ってはいけません。

ですが、ゴヤの『戦争の惨禍』とジャック・カロの『戦争の悲惨(大)』を比べると、

カロは、恐怖の場面を遠くから描いていることに気づきます。

 

 

 一方ゴヤは、写真家ロバート・キャパのように、対象に限りなく接近し、本質的に新しい暴力とのかかわり方、暴力の表現法を提示しています。カントが当時、暴力を批判したように、ゴヤは絵を通して暴力を批判しているのです。

 

 私たちに必要なのは、批判できるようになることです。順応的であるのは良くありませんが、拒絶するのも良くありません。批判するのは大変、難しいことです。哲学者は常に、公平な批判を心がけます。

 

 

 

 

「ユートピア」は守らなくてはいけない

──あなたはあるエッセイで、ナチスの強制収容所の囚人からなる労働部隊で、ほかのユダヤ人を「最終的解決」に導かなければならなかったゾンダーコマンドが撮った写真を見せることを擁護しています。それは、罪なき人々の火葬を写したおぞましい写真でした。イスラエルによるガザへの攻撃でメディアはいま、同じ議論に直面しています。残酷な現実は、ありのまま見せるべきなのでしょうか? 何かを見せるときは、文脈なしに見せてはいけません。その写真を撮った人の視点を説明すしたり、意識させたりしなければなりません。ろくでもない視点もあれば、優しい視点もあります。それはともかく、あなたがおっしゃる写真は見たことがありません。ハマスの攻撃を写した写真は目にしたことがありません。 ──けれどもイスラエルによるガザへの攻撃の写真は目にしたことがあるのでは? 私は原則として、検閲には賛成ではありません。ただよくある過ちは、その写真が撮られるに至った経緯を考慮しないことです。

 

 ──あなたはユダヤ系ですが、イスラエルがガザに対しておこなっていることをどう思っていますか?

 

 イスラエル政府は常軌を逸したファシストの政府です。

ファシズムがイスラエル政府をひっくり返しました。

いいですか、私は「イスラエル国民」とは言っていません。

イスラエル政府は危機的状態にあります。

これは真実です。

そしてハマスは、ファシストの民兵組織です。

 

 したがって、いま起きているのは

基本的にはファシスト対ファシストの戦いで、

市民はその両者のあいだに挟まれています。

最悪の展開で、私は双方の市民のことを心配しています。

 

このことについて何か論じるつもりはありません。

ですが、次のことは言えます。

これは哲学的な観点から興味深い点はゼロだ、ということです。

 

 近頃、知識人は、どんなことについても意見を求められるようになっていて、大きな権力を、大きすぎる権力を与えられています。

 

ガザとイスラエルの紛争に関する意見を美術史家に求めるのはおかしいと思いませんか?

 

 ──先ほどファシズムの感情に言及しました。それはどういうものなのでしょうか?

 

 実際にあった例をお話ししましょう。

あるドイツ人の男性がヒトラーの演説を聞き、感動します。

それは政治的な感動です。1年後、彼は何人もの赤ん坊を無情に殺します。

何が起きたのでしょうか?

 このナチスの若者の感情は、他者から切り離されてしまったのです。

大事なのは自分だけで、倫理観を失ってしまいました。

ファシズムはそこに築かれます。トランプは感情的です。

 

ミレイも、ルペンも感情的です。

ですがその感情は、自分たち以外の者たちからは切り離されています。

 

 ──「優しさは扉を開ける」と言います。

 

 優しさとは、誰かに手を差し伸べることです。

政治家は、私が言うことはユートピア的だと言うでしょう。

けれどもユートピアには政治上、必要な役割があります。

ユートピアは守られなければなりません。

決して実現することはありませんが、私たちを進むべき道に導いてくれます。

Carmen Pérez-Lanzac

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