紫式部と道長の恋の真相 『紫式部日記』に隠された秘密のメッセージとは

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紫式部日記絵巻(模本)出典:国立博物館所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-8375?locale=ja

『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、当時の権力者である藤原道長と恋仲にあったという噂が根強くある。

その根拠となるのは、彼女が残した実録『紫式部日記』に記された、ある夜の出来事だ。

この日記には、道長への想いがほのめかされる他の箇所もある。

ここでは、『紫式部日記』から、彼女と道長の関係を平安文学と紫式部に詳しい京都先端科学大学の

山本淳子教授の新著『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』

から抜粋・再編集して探ってみる。

 

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*  *  *

 

 ■紫式部「御堂関白道長の妾?」 家系図集『尊卑分脈』の注記

 

  十四世紀に成立した系図集、『尊卑分脈』。

これで「紫式部」を調べると、藤原為時の子の一人として「女子」と大書した周りに、

注として次の言葉が記されている。

 歌人 上東門院女房 紫式部是也 源氏物語作者……御堂関白道長云々

 (歌人。上東門院彰子の女房〈侍女〉。紫式部がこの人である。『源氏物語』の作者。

……御堂関白藤原道長の側室という)(『尊卑分脈〈そんぴぶんみゃく〉』第二篇第三 良門孫)

 

 「妾」は、現代の「愛人」ではない。

あくまでも公認された妻の一人、しかし正妻ではない関係を言う。

この資料は、紫式部が道長とそうした関係にあったと言うのである。

しかしそこには「云々」が付いているから、これは伝聞である。

『尊卑分脈』が作られた時、まことしやかにそうした噂をささやく輩がいた。

それは現代にまで伝えられて、二人の関係は様々に勘繰られている。

 

 それにしても、火のないところに煙は立つまい。

噂の発生源はどこなのかと言えば、それは紫式部自身の記した実録『紫式部日記』である。

以下に記す通り、そこにはある夜、道長らしき人物が彼女の局(つぼね。部屋)を訪れたことが記されている。

だが、彼女は戸を開けなかったとも記されている。

しかしそれが火種となって、「いや、本当は戸を開けて道長と一夜を過ごしたのだろう」「いやいや、この夜拒んだというのは本当だろう。だが後々まで招き入れなかったという証拠はあるまい」などと、かまびすしい諸説を巻き起こしているというわけである。

 

ちなみに、後者は先年亡くなった瀬戸内寂聴尼から、生前、筆者が直接うかがった説である。

「紫式部が道長を拒む理由は何一つない」と寂聴尼は言われた。

 

  とはいえ、

彼女が道長を拒まなかったと考える根拠はあるのだろうか。

たぶん、ある。

そう筆者は考えている。

それも同じ紫式部自身の遺した言葉の中に、

少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える

 

紫式部の彼への気持ちがどのように彼女の中に芽生え膨らんでいったか、

そのことは当時の男女関係ではどのような意味を持つものであったかを考えてみたい。

 

 ■「好きもの」紫式部

 

 『紫式部日記』は、四つの部分から構成されている。

最初が彰子(しょうし。道長の娘で、紫式部が仕えた皇后)の出産など

道長家の晴れの出来事を記す寛弘五(一〇〇八)年から同六年にかけての記録、

次は有名な清少納言批判などを記すエッセイ、

それに続いて年次を記さない短い記事群があって、

最後には寛弘七(一〇一〇)年の道長家の記録が置かれている。

 

 

 

 

 

 問題の箇所は三つ目の「年次不明記事群」にあり、

道長らしき人による「局訪問事件」はその末尾に記されている。

ただ、そこにはこの訪問者が道長であるとは記していない。

推理するためには直前の記事から読み始める必要がある。

 

 源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせ給へる、

   すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ 給はせたれば、

   「人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ めざましう」 と聞こゆ。

 (『源氏の物語』が中宮様の御前に置かれていたのを道長様がご覧になって、いつもの戯れごとを口にされるついでに、おやつの梅の実の下に敷かれていた懐紙に、こう書きつけられた。

   梅の実は酸っぱくておいしいと評判だから、枝を折らずに通り過ぎる者はいない。さて『源氏物語』作者のお前は「好きもの」と評判だ。口説かずに通り過ぎる男はいないと思うよ 殿がこの和歌を私に下さったので、私は申し上げた。

 「あら、この梅はまだ枝を折られてもいないのに、誰が『酸っぱい』と口を鳴らしているのですか?

 私だって同じ。まだ殿方とお付き合いをしたこともございませんのに、どなたが『好きもの』などと言い慣らわしているのでしょうか? 心外ですこと」) (『紫式部日記』年次不明記事群)

 

 

 きっかけは、彰子が自分の部屋に置いていた『源氏物語』だった。道長はそれに目を留め、折しも御前にいた作者の紫式部をからかったのである。『源氏物語』は、色好みの主人公・光源氏の面白おかしい恋愛遍歴を綴った物語だと、道長は思っていた。彼は『源氏物語』を読んでいたか、少なくともあらすじは知っていたのである。そこで手頃な紙を探し、折よく彰子のために用意されていた完熟の梅の実の下からすっと懐紙を抜き取ると、すらすらと和歌を書いて紫式部に示した。道長は日常生活のなかで、こうした風流を楽しむ人物だったのである。

 

  しかもその和歌は、梅の実と紫式部を表裏に掛けた優れものだった。梅は甘酸っぱく、人に好んで折り取られる。同様にお前は「好きもの」で、男から好んで誘われるのだろうと。『源氏物語』の作者であるからには実際の恋愛経験も豊富なのだろうという、からかいである。現代の世でこうしたことを小説家に言いかけたりしたら、即座にセクハラと指弾されよう。道長の場合は紫式部のスポンサーでもあったので、パワハラでもある。

 

  しかし、紫式部はいわゆる〈#わきまえない女〉だった。大人しく黙っているのではなく、即座に和歌で言い返したのである。ただ、平安時代にはこうした切り返しこそが女房としての〈わきまえ〉の見せどころとされていたから、これは道長の期待に応える態度でもあった。

 

彼女は道長の和歌の隣に、これもさらさらと書きつけたのだろう。

彼の和歌の趣向をそのまま受けて、梅の実と自分を掛けた和歌である。

梅の実と言っても、まだ枝を折られてもいない場合には、酸いかどうかはわからない。

そのように、自分は男に手折られたことがない――男を知らない〈乙女〉。

なのに、「好きもの」だなんてどういうことでしょう?

 

 紫式部が過去に結婚し子供ももうけていることは、その場の誰もが知っている。

だから

この和歌は、「心外ですわ」とすねてみせる紫式部の演技も含めて、

道長の大笑いを誘ったはずだ。

 

 

 

 

 これは、『源氏物語』が生きて楽しまれていたことを示す一場面である。

道長は『源氏物語』の内容を彼なりに踏まえ、作者を彼なりに認め、持ち上げた。

その空気は、紫式部の作者としてのプライドを満足させただろう。

返歌での切り返しも見事にできた。

 

  だからこそ読者は、そこにはただの色事ではない、『源氏物語』風の空気を感じ取る。

紫式部の返歌に笑いながら、道長の目には彼女への関心が宿ったのではないか。

この作者、面白い女だ――とばかりに。

読者の予感は、『紫式部日記』の次の場面への展開によって確信につながる。

 

 ■真夜中の戸

 

  続く記事は、次の通りである。 渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて、   夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に 叩きわびつる 返し、   ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし (渡殿〈わたどの〉の局で寝ていた夜、聞けば誰かが戸を叩いている。おそろしさに、私は声も出さず夜を明かした。すると翌朝、次のような歌を受け取った。   一晩中、私は泣きながらあなたの部屋の戸を叩きあぐねていました。あの、戸を叩くような声で鳴く鳥の水鶏〈くいな〉より、もっと激しく泣いていたのですよ 私はその場で返事を書いた。   ただ事ではない、確かにそう思わせる叩き方でしたわ。でも本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう? そんな水鶏さんですもの、もし戸を開けていたらどんなに後悔することになっていたでしょう) (『紫式部日記』同前)

 

 

 渡殿は、紫式部が道長の邸宅土御門殿(つちみかどどの)滞在中に

局を与えられていた場所である。

その戸を、真夜中に叩く音。

それも何度も、忍びやかに、しかし性急に。

男だと、紫式部はすぐに気づいた。

だが怖くて逢瀬を拒んだというのである。

 

そして翌日の和歌のやりとり。

昨夜の冷たい仕打ちを詰りつつも、まだ未練たっぷりの男の和歌に、

紫式部は切り返す。

あなたを部屋に入れないで良かったと

 

  戸を叩いた人物が誰だったかを、『紫式部日記』は明かしていない。

もちろん、彼女自身はわかっていたに違いない。

翌朝の和歌はどのようにして届いたのか。

そのこと一つだけでも、推測は成り立つ。

 

だから当然、意図して書かなかったのだ。

だが、前の「梅の実」のやりとりから続けて考えれば一目瞭然だ――。

 

そう思った読者たちは、

これを道長と紫式部のラブ・アフェアと断定した。

 

その約二百年後の鎌倉時代(十三世紀前半)、藤原定家が撰者を務めた勅撰集である『新勅撰和歌集』は、

この二つの和歌を「恋」の部に載せ、

「夜もすがら」の作者は「法成寺入道前摂政太政大臣」つまり道長、

返歌の「ただならじ」は「紫式部」とはっきり示している。

 

現代にまで及ぶ「御堂関白道長妾云々」疑惑は、こうして始まったのだった。

 

 

 山本淳子(やまもと・じゅんこ) 1960年、金沢市生まれ。

 

平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都先端科学大学人文学部教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。15年、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)で第3回古代歴史文化賞優秀作品賞受賞。選定委員に「登場人物たちの背景にある社会について、歴史学的にみて的確で、(中略)読者に源氏物語を読みたくなるきっかけを与える」と評された。17年、『枕草子のたくらみ』(朝日選書)を出版。各メディアで平安文学を解説。著書多数。

山本淳子

 

 

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