戦後の「中国帰還者連絡会(中帰連)」の「正統」は、

愚かにも、毛沢東の「文化大革命」を支持。

この「正統」は、単に毛沢東の権力奪権闘争に過ぎない文化大革命を扇動し、

中国人民と日本の民主主義に不幸をもたらした。

諸悪は「藤田茂」「国友俊太郎」たちにある。

 

 

 

北支宣撫官 太田 出(著) - えにし書房 | 版元ドットコム (hanmoto.com)

 

 

北支宣撫官: 日中戦争の残響

2023/10/15 太田出(著)

 

日中戦争が始まった昭和12(1937)年、中国天津に(北支)宣撫官が誕生した。

中国民衆を日常生活へと戻らせ、食糧を配給し、農務・医療など生活上の問題を解決する任務上、

彼らは〝武器なき戦士〟として軍の意向と正面から衝突し、戦後も葛藤し苦悩し続けた。


1950年に中国戦犯として捕らえられ、昭和36(1961)年に、最後から14番目に釈放された宣撫官、

笠実(りゅう・みのる)を中心にを中心に、宣撫班総班長の八木沼丈夫、宣撫官 陳一徳、

山西残留の中心人物城野宏らの日中戦争から戦後までの長い足跡をたどり、

遺族たちへのインタビュー、新発見の文献資料から、

忘れられつつある記憶と記録を掘り起こし、その実像を綴った貴重なドキュメンタリー。

〈目次〉
プロローグ――帰ってきた宣撫官 笠 実
 第1章 宣撫廟(国際霊廟)
 第2章 宣撫官 笠 実
 第3章 宣撫班総班長 八木沼丈夫
 第4章 中国人宣撫官 陳一徳と宣撫工作
 第5章 山西顧問補佐 城野宏と山西残留
 第6章 「戦争」を生きつづける戦後日本社会
 エピローグ――あの時代に生きた夫へ、父へ、祖父へ
 あとがき

目次

プロローグ――帰ってきた宣撫官 笠 実
 第1章 宣撫廟(国際霊廟)
 第2章 宣撫官 笠 実
 第3章 宣撫班総班長 八木沼丈夫
 第4章 中国人宣撫官 陳一徳と宣撫工作
 第5章 山西顧問補佐 城野宏と山西残留
 第6章 「戦争」を生きつづける戦後日本社会
 エピローグ――あの時代に生きた夫へ、父へ、祖父へ
 あとがき

前書きなど

 昭和36年12月21日、ある1人の男の帰国が報道された。男の名は笠実。全国紙である『読売新聞』の紙面には「笠氏を釈放 中国紅十字から連絡」という見出しが踊っていた。
 記事によれば、「戦犯」として名指しされた笠実の帰国情報が中国赤十字会をとおして日本側にもたらされ、外務省と厚生省が対応にあたっていた。それはポツダム宣言を受け入れて敗戦した1945年から、じつに16年もの歳月が経過したのちのことだった。日本では池田勇人内閣による国民総生産(GNP)の二倍引き上げ、「所得倍増計画」の発表など、まさに高度経済成長時代を迎えていたころの話である。
 帰国することになった笠実をのぞく、残り13名の戦犯とは、戦後中国における日本人戦犯をあつかった代表的な軍事法廷、すなわち瀋陽特別軍事法廷、太原特別軍事法廷において有罪判決を受けた旧日本軍・旧満州国・山西残留関係者などを指し、そこには撫順戦犯管理所に収監されていた、あの富永順太郎らがふくまれていた。総計1526名にも達したといわれる日本人戦犯の最後から14番目に釈放された男、それが笠実であった。
 翌年1月7日には、やはり『読売新聞』がいちはやく笠実の帰国を報道した。
 新年早々7日目に大阪商船の天光丸で横浜に到着した笠実は、昭和14年に宣撫官―簡単にいえば、中国の占領地で民衆の人心安定のために食糧の配布など懐柔を任務とした旧日本軍の嘱託―の一員として中国大陸にわたって以来、23年目にしてようやく釈放・帰国にいたったのだった。古海ら撫順に残る13名のことを気に留める余裕を見せながら、今後は〝日中友好〟のために力を尽くしたいとみずからの新年の抱負を語っていた。敗戦後、17年という長い年月をへて祖国の土を踏んだ日本人戦犯笠実の突然の帰国は大いにマスコミを賑わした。
 戦後日本社会にさきの戦争を否応なしに思い起こさせる「戦犯」の一人として、マスコミはますます競って笠実を取り上げ、世間の関心も笠に注がれていった。
 新聞やグラフ誌の報道を見ると、当時なお長い「戦後」がつづいていた日本社会が、抑留者の動向にいかに関心を有していたか、注目度の高さが理解できる。しかし一方で、報道のなかには戦時中のことを知る人が少なくなかった当時ですら、正確さを欠いたり不用意じゃないかと感じさせたりする言葉遣いが散見する。たとえば「新民会派遣の宣撫班」のように新民会と宣撫班の関係が曖昧なままにされ、「昭和十四年に渡満。宣撫班として新民会に入り……終戦時には山西省壺関県政府顧問兼新民会主席参事という重職にあり、権力をにぎっていた」とあたかも満州国に渡り(笠は満州国へは渡っていない)、その後いつの間にか中国の山西省に移って権力の座についていたかのように記すなど、怪しげな表現が少なくない。
 宣撫班はもちろん、新民会や特務機関など、日中戦争にしばしば登場する、占領軍関係機関に特有の響きをもたらすタームが、笠実を論じるさいには頻出するが、はたしてそれらが何を意味していたのか、具体的にいかなる組織だったのかについて、記者たちはどうも事実関係を十分には調べないままに安易に使ってしまっている。当時は常識だったのだから、あえて説明しなかったのではないかというむきもあるかもしれない。しかし、本書で解き明かすように、これらのタームを使った記事に大筋では同意できるものの、明らかに不正確な表現が多く、たとえ新聞であれグラフ誌であれ、マスコミの報道を鵜呑みにすることには注意が必要だ。笠実が歩んだ道を本当に知りたければ、しっかりと事実の見定めが求められる。
 実際に、笠実に関する他の多くの記事を渉猟すると、彼の人生はおおむね右の宣撫班、新民会や特務機関のほか、県政府顧問といった彼の所属機関や役職、「戦犯」「戦争犯罪」「反革命」というそのときどきの日中関係のあり方によって貼りつけられた一定の価値判断を有した言葉がそこかしこに散りばめられ、さらに「河北省永年収容所」「太原戦犯管理所」「撫順戦犯管理所」への収監、その後の刑期満了と帰国といったあらすじに沿って描かれることが多い。しかし、これらの言葉一つひとつがじつは日中戦争期から戦後にかけての日本と中国のあいだに横たわる暗部を成しており、それをつなぎあわせた笠実の人生は、まさに当該時期の日中関係史の縮図であったともいえる。
 宣撫班とはいったい何だったのか。新民会とはどんな関係にあったのか、笠実に向けられた「戦争犯罪」「反革命」とは何をさしたのか。そもそもなぜ笠実は戦後17年にもわたって中国に抑留されねばならなかったのか。こうした疑問に新聞記事は何も答えていない。また「内戦」の詳細についてもまったく言及がなされていない。
 戦後日本社会は戦犯笠実の突然の帰国に驚嘆しながらも、笠あるいは抑留者に対する理解はこの程度にすぎなかったのであり、真の意味において笠の長い道のりを報道してもいないし知ろうともしていない。たんにあの新中国(共産主義化された中国)に「戦犯」として長く抑留され、共産党による学習の影響を強く受け、〝アカ〟となったことを前提とした、中国を〝礼賛〟する笠の姿のみが紹介された。本書はこの笠実の人生を追いかけながら、笠が人生の節目に出会った何人かの重要な人物の関係者に密着取材し、彼らの体験した日中戦争を跡づけ、戦後八十年を迎えようとする私たちが何を考えるべきかをさぐることを目的としたドキュメンタリーである。
 笠実のように戦時中に中国大陸で活動した宣撫官は、あわせて3720あまりにもおよんだ。しかし、戦後における国内外の政治的な背景もあって、笠は戦後17年目にしてようやく帰国できたのであり、大いに注目を浴びた。とはいえ、現在どれほどの若者が笠実の長い道のりを知っているだろうか。あるいは耳にしたことがあるだろうか。笠の日中戦争体験は、特別な事例に属するのかもしれない。宣撫官は戦場・占領地において具体的にいかなる任務に従事したのか、彼らは何を考えいかに行動したのか、そもそも宣撫官は日本ではどのような人たちだったのか、どうして中国におもむくことになったのか、そうした基本的な事実それ自体がすでに現代日本社会においては忘却の彼方へと消えさりつつある。
 戦後からまもなく80年になろうとする現在まで、日中両国間には、かつての戦争にまつろう歴史認識問題がしばしばクローズアップされ、繰り返し政治問題化されてきた。これらのねじれ複雑に絡み合った両国間の歴史認識の糸を解きほぐすことは決して容易ではない。こうした点を十分に意識したうえで、本書では、笠実をはじめとする宣撫官の視点から、日中戦争、戦後の日中関係をとらえなおし、歴史認識問題を考える一つの手がかりをさぐってみたいと思う。
 現在ではほとんどの宣撫官がすでに鬼籍に入った。もはや宣撫官を語ることはかなり難しいといってよい。しかし宣撫官本人あるいは遺族の方々と連絡を取り、日本全国を駆けめぐり、本人の証言や各種の残された貴重な史料を入手できれば決して不可能ではない。
 「宣撫官を忘れないで」
 「宣撫官の活動を書き留めて欲しい」
 遺族の淡く儚い希望はあえていうまでもないほど切実なものがある。私が宣撫官を調査・記録する作業を始めた理由はここにある。
 宣撫官本人が書き残した回顧録や戦記物は思うほど少なくはない。だが、研究者であれ記者であれ、あるいは遺族ですら、どこかに宣撫官を語ることに後ろめたさを感じるのか、記録に目を向けようとする者は少ない。いや、目を背けているといってよいのかもしれない。これまでほとんど日の目を浴びる機会のなかった宣撫官について、本人と遺族のナマの声を手がかりに、敗戦後の日本社会のなかでは口を閉ざし語られることのなかった、彼ら宣撫官の目に映った中国社会や中国人の姿、みずからの中国民衆に対する思いや信念といったものを拾い上げ、彼らが任務をとおしていかに中国像を形成し、そこにどのような自画像を見いだしたのかを考えてみたい。
 宣撫官を訪ねる私の旅は十年の時間を経ようとしている。宣撫官本人も遺族の方々も、彼らを訪ね歩いてきた私も、その記憶はかなり薄らいできている。忘れぬうちに一刻も早く書き留めなければならない。

 


 そこで本書では、まずは亡くなった宣撫官たちの鎮魂のために戦後に建立され、元宣撫官たちが心のよりどころとしてきた宣撫廟をたずねたい。宣撫官を知っていても宣撫廟の存在を知らない人は多いだろう。ついで冒頭で紹介した宣撫官笠実の足跡をたどり、さらに宣撫班総班長であり笠たち宣撫官の精神的支柱となっていた八木沼丈夫の実像に迫ってみたい。


 そして忘れてはならないのが中国人・満州人・台湾人・朝鮮人などの外国人宣撫官である。本書では中国人でありながら宣撫官となった陳一徳の生涯を追ってみたい。これは笠や八木沼に匹敵する、いやそれ以上にわれわれに戦争とは何だったのか、宣撫官とは何だったのかを問い直す力を秘めている。
 最後を締めくくるのは笠とともに山西に残留した城野宏である。城野は笠釈放の3年後、昭和39年3月に釈放され帰国した最後の中国戦犯であった。城野は宣撫官ではなかったが、笠らとも知り合い、宣撫官にシンパシーをもったのか、帰国後には宣撫官の戦友会であるに入会までした。終戦の八月十五日以後も太原にともに残留しつづけてきた笠と城野の二人は、帰国後においてまったく異なる道を歩みながらも、ともに数奇な運命をたどった。
 本書では、遺族などの証言者たちと話を交わすなかで、見たり感じたりしたことをありのままに書き留めたい。そこにはこれまで触れられることのなかった宣撫官の心のうちが描かれるであろうし、そうした記憶を私とともに歩いたり考えてくれたりする方が新たに現れるかもしれない。できるなら宣撫官本人、遺族の方々が希望しているように、一方通行ではなく多くの方々と情報共有できることを期待している。
 では、たった今から本書を片手に、宣撫官たちを訪ねる心の旅にお付き合いを願いたい。まずはすでに亡き宣撫官たちを祀った宣撫廟を訪れてみよう。そこから宣撫官が歩んできた道のりをたどるわれわれの旅路が始まるのである。
(プロローグより抜粋)

版元から一言

日中戦争時に活動した「宣撫官」の知られざる実像に迫る本格ノンフィクション。

著者プロフィール

太田 出  (オオタ イズル)  (著)

1965年 愛知県に生まれる
1988年 金沢大学教育学部卒業
1999年 大阪大学大学院文学研究科博士課程修了
広島大学大学院文学研究科准教授を経て、現在京都大学大学院人間・環境学研究科教授 博士(文学)
主著 『中国近世の罪と罰―犯罪・警察・監獄の社会史』(名古屋大学出版会、2015年)
   『関羽と霊異伝説―清朝期のユーラシア世界と帝国版図』(名古屋大学出版会、2019年)
   貴志俊彦・白山眞理編『京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真資料集成 全2巻』(国書刊行会、2016年、共著)