フレーゲからラッセル、そしてウィトゲンシュタインへ
――二十世紀初頭、言葉についての問いと答えが重なりあい、つながりあっていった。
天才たちの挑戦は言語哲学の源流を形作っていく。
その問いを引き受け、著者も根本に向かって一歩一歩考え続ける。
読めばきっとあなたも一緒に考えたくなる。
とびきり楽しい言葉の哲学。
【目次】
はじめに
第一章 一般観念説という袋小路
1どうして言葉は新たな意味を無限に作り出せるのか 2「猫」の意味は何か 3個別の猫と猫一般
4心の中に猫の一般観念を形成する?
第二章 文の意味の優位性
1私たちはただ対象に出会うのではなく、事実に出会う
2語は文との関係においてのみ意味をもつ
3文と事実の関係
4述語を関数として捉える
5固有名の意味と文脈原理
6新たな意味の産出可能性の問題に答える
7合成原理
第三章 「意味」の二つの側面
1文の「意味」 2指示対象と意義 3固有名の意義
第四章 指示だけで突き進む
1日本の初代大統領は存在する? 2記述理論 3本当の固有名 4文の意味と命題
第五章 『論理哲学論考』の言語論
1『論理哲学論考』の構図 2言語が可能性を拓く 3論理形式と論理空間 4論理空間と文の意味 5フレーゲ、ラッセルとの対比 6フレーゲからの挑戦に答える 7『論理哲学論考』から『哲学探究』へ
注
おわりに
索引
==或る書評より
フレーゲ・ラッセル・前期ウィトゲン・シュタイン(石のこと)三者の言語哲学=言語論的転回の啓蒙書。
第一章では普遍名辞に関するジョン・ロックの一般観念説およびそれへのバークリーの反論。観念が心理的であることに帰結するコミュニケーションの不可能性に対するフレーゲの反論。第二章・第三章はフレーゲの合成原理・文脈原理、意味と意義。信念文に関する問題に対する解決策として固有名の意義を認めることになる。非要素主義。語の意味は指示対象であり、文の意味は真理値である。第四章はラッセルの記述理論。真の固有名は「それ」や「あれ」など。要素主義を取る。第五章は野矢茂樹の十八番の前期ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について。前章までに噴出した課題を『論考』がいかに解決するかを見ることになる。対象と語の論理形式の一致。
終章では可能世界論の導入もしており、分析哲学の入門書としての機能を果たしている(著者は前期ウィトゲンシュタインの可能世界的意味論に対して反実在論的解釈を示している)。本著は、ウィトゲンシュタイン草稿の「フレーゲの教えるところによれば『文は名である』。それに対してラッセルは『文は複合物に対応する』と述べた。(中略)ひとは事実を名指すことはできない」というウィトゲンシュタインの主張を理解するための一冊と言えるだろう。
==或る書評より
これまで言語哲学、分析哲学にほぼ縁のなかった評者であるが、分かりやすいと評判の野矢氏の著作だったので手に取ってみた。拙いながら本書のあらすじを示すと次の通り。
➀「新たな意味をもった文を無限に作ることができるのはなぜか」
という新たな意味の産出可能性の問題から出発し、
まず「語の意味が理解できれば文の意味は理解できる」という要素主義の立場から検討する。
この場合「富士山」や「伊藤博文」などの固有名は指示対象を明確にできるが、「猫」のような一般名は現実には個別の猫が存在するだけで、それらを抽象化した一般観念を指示対象とする、という説は成り立たない。
②ここでフレーゲは発想を転換させて
「文の意味との関係においてのみ語の意味は決まる」という文脈原理を提唱する。
「ミケは猫である」という文において、後半部分を「xは猫である」という命題関数として捉え、xに代入する語によって命題の真偽が決まる。ここでの真偽はいわば文の指示対象であり、フレーゲはこれとは別に語や文には「意義」があると主張する。例えば、「xは二等辺三角形だ」と「xは二等角三角形だ」という命題関数はともに真であるが、その真理を導き出す条件、すなわち意義は異なっている。またフレーゲは固有名にも指示対象と意義の双方が備わっているとする。例えば「フォスフォラス(明けの明星)」と「へスぺラス(宵の明星)」の指示対象はともに金星であるが、「フォスフォラスとへスぺラスは同じものだ」という文は成り立つのに対して、「フォスフォラスとフォスフォラスは同じものだ」という文は成り立たない。これは両者の語のもつ意義の違いが認識価値の違いをもたらすものだと考えられる。また、「フォスフォラスに生物がいると信じている」と「へスぺラスに生物がいると信じている」という信念文の真偽が別個に存在し得るのも、金星の捉え方という意義が異なっているからである。
③これに対してラッセルは意義という考え方を用いず、一貫して指示対象の役割のみを認める。
第一形態のラッセルは例えば「日本の初代大統領」のような語にも指示対象がある、すなわちそうしたものも存在することを是認する。
第二形態では「xは日本の初代大統領だ」と命題関数を用いて分析(「確定記述」)してこの命題が偽であることを示し、存在論への論理学的アプローチに成功する。
そして、全ての固有名が確定記述だという議論をつきつめると、
真の固有名は「これ」「あれ」という指示語であるという第三形態のラッセルにたどり着く。
④ウィトゲンシュタインによれば、世界は事実の総体であり、さまざまな事実を対象に分節化して組み合わせることで可能的な事態を表現することができる。すなわち、現実に存在する〈富士山〉〈小惑星〉〈衝突する〉という対象を組み合わせて、〈富士山に小惑星が衝突する〉という非現実的であるが有意味な文を作ることが出来る。…
と、ここまで書いたところで評者のレビュー力も尽きてしまった。
これは評者に論理的な思考/記述能力が不足しているせいではあるが、
やはりウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は相応に難解なのだろう。
これだけ具体例を出されても消化できないのに、抽象的な定理だけ並べられても分かろうはずがない。
しかし読み応えのある一書ではあった。
緑の日本語学教本
2010/3/30 藤田保幸(著)
第1講 言語と人間 ステップA 1.人間の言語の特質/2.言語の機能/ステップB 1.言語記号の恣意性/2.サピア・ウォーフ仮説/3.言語中枢/
1958大阪生まれ。1986大阪大学大学院文学研究科後期課程単位修得。