「非西欧的価値観」を見抜けなかったキッシンジャー外交の限界(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

「非西欧的価値観」を見抜けなかったキッシンジャー外交の限界

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東洋経済オンライン

1975年12月、当時のフォード・アメリカ大統領(中)に同行して訪中したキッシンジャー国務長官(右)が中国の毛沢東と握手をしている(写真・Gerald R. Ford Library/ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ)

 キッシンジャーが亡くなった。良くも悪くも、100年を生き続けた類いまれな政治家であったことは否定できない。人の評価には毀誉褒貶がつきものだが、それはどこから人を判断するかによる。  スコットランド出身のジャーナリストであるニーアル・ファーガソンの伝記『キッシンジャー』全2巻(村井章子訳、日経BP社、2019年)のように、ありとあらゆる資料を読み、この人物をきちんと評価するべきかもしれないが、私はキッシンジャーが外交を展開した非西欧の国々の立場からみてみたい。

 

 

■アメリカという理想像の終焉

 

  キッシンジャーといえば、1973年のチリのピノチェトによるクーデタと、ベトナムからのアメリカ軍の撤退を思い出す。この2つの出来事は流れとしては真逆のことであるが、それは21世紀にいたる歴史の曲がり角を示している。アメリカという理想像の終焉である。  それはベトナム戦争の敗北で、アメリカという絶対的権力が衰退したことと、そしてチリという新しいクーデタによる政権を強引につくり、新自由主義の実験を行い。20世紀後半に向けてのアメリカの復活の実験を行ったことである。

 キッシンジャーはバランス・オブ・パワー(勢力の均衡)を旨とする外交家だと言われる。1971年の突然の中国訪問、そしてソ連東欧圏との雪解け、デタントなど、八面六臂の活躍をしたのがキッシンジャーだ。  勢力の均衡という考えは、1648年のウェストファリア条約から来ている。つい最近出たキッシンジャーの書物『国際秩序』(伏見成蕃訳、日経ビジネス文庫、2022年)の冒頭で、こう述べている。  「私たちの時代に秩序として適用しているものは、4世紀ほど前に西欧で編み出された。ドイツのヴェストファーレンで開かれた和平会議がそれにあたる。他の大陸や文明諸国はほどんと関与せず、認知してもいなかった」(10ページ)

 「力の均衡が状態となり、望ましいと見られれば、各支配者の野望の釣り合いがとれて、理屈の上では紛争の規模が制約されるはずであった」(11ページ)。  そして彼は、こうした勢力均衡の価値観は現在の西欧の基本的価値観を形成し、それが今の国際社会の価値観になっていると述べる。そしてそれが世界に普及したのは、植民地の人々でさえ、この価値観で民族独立を主張したからであると。  なるほど、少なくとも西欧と日本のようなこの価値規範によって独立した地域は、国際法に縛られ、簡単に戦争などできない。だからこうした勢力均衡を世界に普及すれば、世界は安定する。

 

 

 

 

 しかし、なぜこれがうまくいかなかったのかという点において、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲他訳、以文社、2003年)は、興味深い問題を提起している。この書物が書かれたのは、あの9.11(同時多発テロ)の時期で、西欧的価値観を覆す、中東のアルカイーダがアメリカを急襲したときである。 ■ウェストファリア条約の盲点  それはこのウェストファリア条約の中では、これに調印した国にのみ、国際社会の秩序が与えられるのであり、そうでない国や地域はその外に置かれるということだったからである。ロシアやオスマントルコはこの外にいたし、ましてアジア・アフリカ・中南米の国はまったくの圏外にあったのである。

 だから、西欧諸国がアジア・アフリカに行ってどんな残虐なことをしようと、それは国際法の外にあり、いかに残酷なこともそれらの地域の住民にできるという抜け道をつくっていたのである。  それは民主的政治形態や人権においても。すべからく、ウェストファリア条約圏の外では、まったく実現されることはなく、人間性を無視した野蛮な行為がどうどうと正当化されることを、承認していたわけだ。  ネグリとハートは、むしろこの例外の部分にこそ、ウェストファリア条約という西側の価値観の大きな問題点があったと考える。ウェストファリア条約の勢力均衡は、その圏外に対する支配を生み出し、それが西欧的価値観に対する嫌悪を、彼らに支配されてきた非西欧の人々の中に生み出していく。

 キッシンジャーは、西欧世界の飛び地でもあるアメリカがヨーロッパの勢力均衡的価値観を世界に流布する役割を負っていると考えているが、そのことはとりもなおさずアメリカに西欧的価値観を流布するミッションが与えられていることである。  そうなると、この価値観を理解しえない国や地域との関係どうするかということが問題になる。これこそキッシンジャヤーが外交として挑んだ対象であった。  中国やベトナム、そしてソ連や中東、チリは、まさにこうした西欧的価値観の外にあった国である。アメリカが民主主義のミッションにこだわれば、そこにはつねにアメリカと非西欧社会との対立が生まれる。

 

 

 

 

 

 この対立を避けるには、非西欧の多様性を認めるべきなのだが、ニクソン政権が行ったことは、アメリカという軍事、経済、政治のパワーにおいて世界に並ぶもののない力を世界に誇示したことであり、それと同時に譲歩もしながら、やがて西欧的価値観に変貌する時を待つという作戦であったともいえる。  東西のデタントによる雪解けは、やがてソ連・東欧への大量のドルの貸付けを生み出し、それがコメコン(COMECON、経済相互援助会議。旧ソ連と東欧圏の社会主義国が結成した経済相互援助に関する会議)による経済体制を破綻させた。

 中国訪問によって、アメリカは中国という国の価値観の相異を認めるふりをしながら、一方で開放政策として資本主義体制に引き込み、中国の体制をぐらつかせることにも成功した。 ■非西欧諸国が忘れない差別と搾取  1989年から始まるソ連東欧体制の崩壊は、キッシンジャー政権から始まる「トロイの木馬」作戦の結果であったともいえる。一見、他国の価値観の相異を認め、寛容なふりをしつつ、相手が安心しきった後、相手の寝首を掻く作戦だったともいえる。

 ただここで忘れてはいけないことは、非西欧諸国は欧米に対する植民地時代の積年の憎しみをけっして忘れたわけはなかったことである。これらの地域が、西欧的価値観の外にあったことで、徹底した差別と搾取の対象になった非西欧諸国の人々は、西欧的価値基準のもつダブルスタンダートの価値観に納得していたわけではない。  まさに2001年9月11日に、欧米的世界秩序に激震が走る。普遍的価値基準だと確信していた西欧的価値基準、国際法、国際条約などが、けっして普遍的なものではなく、非西欧から異議申し立てを受けるものにすぎなかったことがわかったのである。

 彼らをテロリストと呼ぼうと野蛮人と呼ぼうと、西欧的価値基準の外から彼らがアメリカを攻撃したことはショックだったはずである。キッシンジャーは当時、国際的価値基準を喪失した無法地帯の出現に驚いていた。  ソ連東欧体制の崩壊によって単一の世界市場となった90年代、グローバリゼーションという言葉によって、世界が欧米的価値基準によって平準化するかのように見えた。  確かに圧倒的パワーをもった帝国アメリカが、世界に君臨し、ユニラテラルな国にとして世界を指導し始めていた、まさにそのときに、この事件は起こったのである。

 

 

 

 皮肉ともいえるこの現象は、グローバリゼーションという西欧的価値観の流布そのもの中にあった。グローバル化することで、先進国の資本や技術が非西欧世界に拡散し、非西欧が世界市場の中で次第に技術を高め、資本を蓄積し、次第に西欧に対抗できるようになっていったからである。

 

 ■グローバリゼーションによるレジームチェンジ

 

  こうして次第にGDPにおいて、軍事力や政治力において非西欧諸国は力を増してくる。  西欧諸国がサービス業と金融業にシフトしていくことで、些末な工業製品を作らなくなり、日常生活の品物を作るものは非西欧ということになってくる。BRICSという枠組みでも知られる非西欧諸国が次第に、新しい産業国家として勃興してきたのである。

 

 ここで西欧的価値基準が依然として力を持ちうるのかという問題が出てくる。かつて西欧の外に置かれ、非人間的に差別されてきた国々が、今でははっきりとものをいうようになる。その例がロシアであり、中国であった。

 

  キッシンジャーはウクライナ戦争が始まったとき、ウクライナは中立ではなく、

NATO(北大西洋条約機構)に入るべきだと語ったが、そうなると非西欧的価値観ともろに衝突する。

ウクライナが西欧であるかどうかも疑問だが、

ウクライナが西欧に入るとすれば、ロシアとの勢力均衡は崩壊する。

 

 しかし、あえてそこまでしてもこだわらざるをえないのは、

いよいよ西欧世界がつくりだした価値観が、崩壊するからかもしれないからである。

 

そうなるとウクライナのみならず、西欧的価値観に賛同する国を、自らの勢力の中に引き入れ、その勢力の増大によって西欧は自らの延命にかけるしかなくなる。

 

  キッシンジャーはある意味不幸な時期に亡くなったともいえる。

西欧的価値基準であるウェストファリア条約の価値観が世界の一部の地域にしか当てはまらなくなったことがわかったからである。

 

もう一度その価値観を繰り返し、

西欧の歴史の普遍性と世界の教師としの役割を西欧が担うべきかどうかについて、苦悶しながら生涯を終えたからだ。

 

 まさに歴史の岐路に遭遇し、その責任をとるために今一度、この問題を熟考するはずであった

であろうが、その夢もかなわず永遠に旅立ったからだ。

 

的場 昭弘 :哲学者、経済学者

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