ただの「創価学会の三代目会長」ではない…池田大作氏が「カリスマ的指導者」として絶対視されたワケ(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

ただの「創価学会の三代目会長」ではない…池田大作氏が「カリスマ的指導者」として絶対視されたワケ

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プレジデントオンライン

講演する創価学会の池田大作名誉会長(=東京・八王子市の創価大学、1986年8月31日) - 写真=時事通信フォト

創価学会の名誉会長を務めた池田大作氏は、どんな人物だったのか。

 

評論家の八幡和郎さんは

創価学会を日本一の教団にしただけでなく、

謝罪するときは潔く、不祥事にも厳しく対応し、

何度も教団を窮地から救ってきた」という――。

 

  (写真左)初代創価学会会長の牧口常三郎氏/(写真右)創価学会第二代会長の戸田城聖氏

 

■日本仏教史で行基や蓮如と並ぶ宗教指導者

 

  創価学会の池田大作名誉会長は、一般国民にその素顔をあまり知られないまま亡くなったが、戦後日本で最重要人物の一人だった。  傑出した宗教家であり、思想家、著作家、教育者としても成功し、世界的な文化活動や平和運動の支援者であり、政界の陰の実力者で日中国交回復の功労者であった。  宗教指導者としては、日本仏教史で、日蓮や親鸞といった教祖を別にすると、聖徳太子、行基、蓮如と並ぶ存在だといって差し支えないと私は考えている。  私の先祖は、滋賀県守山市の門徒で、近在に住んで布教していた蓮如上人を支えていたようだ。戦国時代にそれまで貴族や武士のものだった仏教を大衆化し、本願寺を発展させ、織田信長すら震撼(しんかん)させる勢力に育てた蓮如と池田氏の功績は似ている。  そう私が書いたのを見て、宗教家でなく大衆動員に長けた俗物と指摘した論者がいたが、教団を発展させるリーダーは学識だけでなく、優れた組織の運営者であり、カリスマ的な大衆人気が必須だ。

 

 ■カリスマ的大衆性を兼ね備えた文学青年

 

  創価学会は2015年、学会員が読む「勤行要典」を改訂して、初代牧口常三郎氏、二代目戸田城聖氏と三代目池田大作氏の名を入れ、創価学会が今後も池田路線を踏襲することを明確化した。  小学校教員だった牧口氏は、1930年に「創価教育学会」を創立し、やがて、日蓮正宗の信徒組織としたが、1943年に逮捕され獄死した。  二代目の戸田氏は、戦前は教育出版社経営で成功していた。戦後の1952年には宗教法人「創価学会」とし、「折伏大行進」という大規模な布教を展開した。  池田大作氏は、戸田氏の出版社で働いていた有能なセールスマンで、教団では布教の名人だった。貧困がゆえに上級学校では学べなかったが、寸暇を惜しんで読書に励み、すぐれた文章や詩を書く文才もあったし、音楽や写真など多才な人だ。  大集会での演説も抜群で、扇子を持って踊るなど大衆を鼓舞することに長けていた。一方で、外部のインテリには聞き上手で好感の持てる紳士として振る舞ったし、それは世界の知識人との対談で生かされた。抜群の記憶力も生かして一般会員に暖かい言葉をかけることでの人心掌握も得意だった。

 

  数百世帯といわれた小組織を発展させたのは戸田氏だが、

池田時代になってからはさらに3~4倍になったようだ。

 

 

 

 

■選挙の時に公明党の存在感が増す理由  政界への進出も、戸田氏が旗振り役となり創価学会の内部組織が差配していたのを、池田氏が1961年に公明政治連盟と改組し、1964年に公明党として分離した。  信者数は公明党の得票数や創価学会の行事参加者などから数百万人とみられる。日本人の数パーセントだが、選挙になると公明党の比例票が12パーセント程度となるのは、学会員の投票率が高いのが主因だ。  戸田氏は諸葛孔明に心酔しており、池田氏も影響を受け、参謀的センスはそのあたりからも磨かれた。世間からは池田氏は強引な人だと見られがちだが、謝罪するときは潔く、損切りも大胆だし、不祥事を起こした幹部や議員は早めに処分した。一方、組織の方向転換が必要な時には一般会員の意見をよく聞き、無理をしないで時間をかけて行った。 ■池田氏を悩ませた2つの問題  池田氏を悩ませたのは、日蓮正宗(日蓮宗の一派)との関係だ。創価学会は日蓮正宗の信徒団体として出発し、信徒の9割以上が学会員になった。大石寺に正本堂を建立したときは、寄付の98%が学会員だった(1965年に募金活動し1972年完成)。  しかし、創価学会が意見を言っても、宗門の僧侶たちは創価学会を下部組織として扱って耳を貸さない。とくに、国立戒壇設置にこだわり、創価学会はこの頃に完成した大石寺正本堂で十分だとした。  あるいは、池田氏がベートーベンの第九交響曲を称揚するのを宗門は非難したが、世界宗教への道を歩もうとすれば他文化や他宗教との融和は不可欠だった。結局、1991年に宗門が創価学会を破門し、その後、宗門によって正本堂も取り壊された。この経緯でも池田氏はかなり妥協し、無理をしなかった。  もう一つ、池田氏を苦しめたのが1969年の言論出版妨害事件だ。衆院選直前に発売予告された政治評論家・藤原弘達の著書『創価学会を斬る』は、「宗教は大衆を麻痺させる阿片的機能を果たした」「創価学会は狂信者の群れ」と批判し、とくに婦人部の女性たちを侮辱する内容だった。  そこで、創価学会と公明党は出版時期の中止・変更や、表現を穏健に書き直すことを求めたが、田中角栄氏による仲介を公明党幹部が働きかけたことが大問題となり、共産党も加勢して創価学会・公明党は窮地に立った。

 

 

 

 

■妨害事件を反省し、強引な体質を改善させた  もちろん、出版妨害はよろしくなかったが、藤原氏の書籍の内容も、今日なら名誉毀損(きそん)で訴えられたら苦しいだろう。また、選挙直前の出版は、選挙妨害だという批判もあったし、現在では藤原氏と公安関係者の格別に密接な関係が指摘されており、藤原氏が「正義の味方」というわけではない。  だが、池田氏は非を認めて謝罪し、公明党との政教分離を徹底した。公明党を創立して創価学会と組織を分けたこと自体が政教分離のためだから、この事件で政教分離に追い込まれたというのは正しくないが、この時期に、池田が組織拡大のためなら強引さが許されがちだった創価学会や公明党の体質を思い切って改めたことは、長い目で見て賢明だった。  同時に、他宗教を「邪教」と言わないとか、会員が生活に困窮するような無理な資金協力をさせないようにするといった配慮が徹底されている。  拙著『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)や、「『日本一選挙に強い宗教団体』はどうなるのか…創価学会が直面している『時代の変化』という大問題」という記事でも論じた通り、会員は聖教新聞を購読し、年に一人1万円程度の財務を銀行口座に振り込むのが標準だが、生活保護受給者などは払わなくてもいいことになっている。経済的負担が小さいのも、創価学会が成長し、勢力を維持している理由のひとつだ。

 

 ■政教分離で批判していた自民党と手を結ぶ

 

  池田氏は政界でも存在感を発揮した。

 

田中角栄氏と日中国交回復で協力しつつも、社公民路線を基調とし、

その延長で細川連立政権に参加したり、新進党の結党に加わったりした。

 

  この時期、旧統一教会問題から目をそらす目的もあったようにも見えるが、自民党が政教分離をネタに創価学会を攻撃し、

創価学会が犯罪に絡んでいるとか、

池田氏が愛人を国会議員にしたといった週刊誌報道を機関誌「自由新報」に転載したりした。

 

 

  しかし、この週刊誌報道は裁判で完敗し、

窮地に立った自民党が全面謝罪したことが、

2000年に公明党が政権参加する道を開いた

 

政治的な窮地を巧みに前進につなげていったのは、池田氏の手腕に拠るところが大きい。

 

 

 

 

■この13年は「ポスト池田時代」への準備時間

 

  だが、自公政権が成立したのち、池田氏は体力の衰えが目立ち、2010年の訪米のあとは、公衆の面前に出てこなくなり、ときおり写真や声明が発表されるだけになった。  影武者という突飛な噂も流れた一方、佐藤優氏のように、自分がいなくても組織が動くよう、死後へ向けて戦略を練り、教えや価値観をテキスト化し、組織のシステムを整えるために「意図的に姿を見せなかった」と見る人もいる。  いずれにしろ、創価学会がこの13年間に、教義の微修正などして、ポスト池田時代に軟着陸できるよう時間を有効に使ったことは間違いない。  これまでやや消極的だったSNSでも、池田氏の死去が発表された11月18日の創立記念日に創価学会広報室のX(旧Twitter)が開設された。また、池田氏の創価学会葬が営まれた11月23日、公明党の山口那津男代表は葬儀に出席せずに訪中して政教分離を印象づけた。  会員が喪に服して悲しむのでなく、希望を持って新しい時代のスタートを切る方向に誘導しているようだ。さしあたり次期総選挙は池田氏の弔い合戦として戦うのだろう。

 

 ■勢力衰退を食い止めるには、攻めの姿勢が必要

 

  近年、「ポスト池田時代」を円滑に迎えたいということか、摩擦回避路線がやや目立っているような気がする。しかし、これからは攻めの姿勢も必要になってくるだろう。  国内政局では、自民党の保守派は安倍晋三元首相の死後、安直に自公連立の解消を言い出している。また、別の機会に分析したいが、安倍氏が「小選挙区での自民票の約2割が創価学会票だ」と回顧録で語っていたほど会員票の存在感は大きく、自公連立をやめたら、自民党は恒常的には政権を維持できないだろうし、憲法改正の国民投票で勝てる可能性はほぼなくなる。  一方、ほかの宗教ほどではないが、創価学会の会員数と公明党への投票が漸減傾向なのも確かだ。伝統仏教で平和運動を展開したい僧侶などが共産党などに流れがちであるのを、受け皿をつくり吸収する工夫をすべきだろう。

 

 

 

■国民の批判にさらされている宗教界をどうするか

 

  宗教界全体で対処すべき問題での共闘もあってしかるべきだ。

 

池田氏の弔問で岸田首相が創価学会本部を訪れたら、

政教分離に反し憲法上問題という批判があった。

 

だが、

それが憲法違反なら公職者が寺社へ行くことも同じで、

伊勢神宮への参拝もできなくなる

 

  旧統一教会問題以来、宗教一般への攻撃が巷にあふれているなかで、

創価学会や公明党が宗教界をとりまとめる立場に立つべき時が来ていると思う。

 

  自公協力では、公明党も第九条改正についてどこまで妥協できるかを明確化せねばなるまい。

 

中韓に対しては融和路線だったが、自公連立の時代しか知らない若い人たちからは、

中国などの反日ぶりに我慢できない会員も増えている。

 

  逆に、「戦争ほど残酷なものはない」と信心の教科書とされる『人間革命』の冒頭で言い切った池田氏の気持ちを継ぐとしたら、ガザの惨状をみても極端な親米外交を支持し続けるのかという疑問も生まれてしかるべきだ。

 

  また、中国においては、現在は布教という形でなく

池田思想の研究といったかたちだが、いずれ信教の自由化が進んだら、

大躍進できる可能性がある。

親中で政治権力と共存できる実績を日本国内で持っていることは強い

 

  また、

イスラムと対立する欧米社会の混乱のなかで、

仏教のよさに理解が進む可能性もあり。

池田氏が念願した世界宗教へ向けて、

今こそ大きく飛躍すべき時なのかもしれない。

 

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八幡 和郎(やわた・かずお) 徳島文理大学教授、評論家 1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス、八幡衣代と共著)、『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』(光文社知恵の森文庫)、『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)、『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)など。 ----------

徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎

 

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池田大作の履歴書】かつては高利貸しの営業部長だった…神格化のために行われた大袈裟な演出とは

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デイリー新潮

池田大作氏

 11月15日、老衰のため95歳で死去した創価学会の池田大作名誉会長とは、いかなる人物だったのか……。「週刊新潮」は2003年11月6日号より8回にわたり「新『創価学会』を斬る」という特集を組んだ。筆者でジャーナリストの山田直樹氏は、この連載で第10回・編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞の大賞を受賞。中でも第7回「『高利貸しの営業部長』だった 『池田大作』の知られざる屈折人生」(03年12月18日号)は、触れられたくない過去について論じている。註・年齢や肩書きなどは掲載当時のままとする。

 

  【レア写真】「強面すぎんか?」“高利貸しの営業部長”だった、若き日の池田大作氏 いかついスーツでポケットに手を突っ込んで歩く様子

 

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 32歳で創価学会3代会長に就任以来、実に43年。池田大作名誉会長ほど離反者を生み、さまざまな告発を受けた人物はいない。学会員の絶対的な崇拝の対象となる一方で、この人物の特異な人間性は、常に多くの裏切りを生み続けた。今や与党・公明党の事実上のオーナーとして法王の座を手に入れた池田氏。どうしても触れられたくないその知られざる過去に迫る。  創価学会の行動原理・思考形態は、日本の新興宗教団体の中でも極めて特殊と言える。 “教祖様”を絶対視し、崇拝し、その言葉を無批判に受け入れる点は、多くの新興宗教団体と共通しているが、敵対者への強い攻撃性や憎悪は、やはり、この団体の持つ大きな特徴と言っていいだろう。  しかし、これは同時に、 「脱会すれば、このようになる」  との恐怖を学会員に植えつける、組織を守るための絶大な効果をもたらしてもいる。そのような恐怖と憎悪こそが創価学会(員)のエネルギーを引き出す“源泉”であり、同時に、 「自分たちのしている事は正しい。世間も驚嘆する偉業をなし遂げている」  というカタルシスを多くの学会員に抱かせる基となっているのも特色だ。  目を輝かせて池田大作氏の偉大さ、素晴らしさを訴える学会員を見ていると、これだけの陶酔感、使命感を多くの学会員にもたらす池田氏のパワーには驚嘆せざるを得ない。  今回は、その池田大作という人物の人間性を解明する中から、学会の根本的な病理を検証したい。  公称550万部の創価学会の機関紙・聖教新聞は、敵対者への口汚い誹謗・中傷記事で溢れている。しかし、もちろんそれだけではない。常に1面を飾るのは、池田大作氏の業績紹介であり、礼讃記事である。  例えば、先月(註:2003年11月)1カ月間の同紙はどうか。  この中で、勲章など池田氏の受賞関連の1面トップ記事は実に13にのぼる。名誉博士2件、名誉市民4件、顕彰状・感謝状3件、受賞4件という具合だ。繰り返すが、これはたったひと月の間である。 〈ブラジル マイリンケ市SGI会長夫妻を名誉市民に〉(3日付) 〈人間革命の哲学が21世紀の扉を開いた 台湾各地から池田SGI会長に感謝状〉(9日付) 〈フィリピン キャピトル大学が決定 池田SGI会長に名誉博士第1号〉(11日付) 〈カリブ海永遠の美の島ドミニカ SGI会長夫妻に国家賓客称号〉(15日付)  ……等々である。  12月に入っても、それは変わらない。12月4日付聖教新聞には、 〈非暴力 源流の国・インドで大反響 ガンジー・キング・イケダ展〉  という特大の記事が載っている。  これは、アメリカ、パナマ、イギリス、ニュージーランド、ウルグアイなど世界中を巡回している、ガンジーとキング牧師、そして池田大作氏の偉業を称える展覧会の紹介記事だ。その展覧会が当のガンジーの国・インドで開催されたというのである。

 

 

  敵対者を口汚く罵り、これまで言論出版妨害事件や宗門との激しい抗争を繰り返し、脱会者への徹底した攻撃を行ってきた池田大作氏が、よりによって“非暴力・不服従”のマハトマ・ガンジーや黒人公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師と肩を並べたという展覧会なのだから、いくら創価学会が後援するイベントとはいえ、鼻白む人は少なくあるまい。

 

 

 

貧困の中の虚と実

 日木人の美徳の一つに「恥を知る」があることは、これまで欧米の文化人類学者が幾度となく指摘してきた。  慎み深さや奥ゆかしさという言葉でもそれは言い換えられるが、しかし、多くの日本人には、毎日毎日、自らが全権を握る機関紙に自分が勲章や名誉称号を受けたことを写真つきで大々的に報じさせ、あるいは世界中で「ガンジー・キング・イケダ展」なるものを開催させる池田氏がどう映るだろうか。少なくとも彼が、その「恥を知る」日本人の特性とは無縁な人物であることだけはお分りいただけるだろう。  いずれにせよ、他の宗教団体指導者と最も乖離しているのは、池田氏の異様なまでの勲章へのこだわりや名誉欲、そして自己顕示欲である。  それが何に起因するかを知るには、やはり彼の生い立ちから遡らねばなるまい。  池田氏が産声をあげたのは、1928年1月2日。現在の大田区大森北2丁目あたりだ。海苔業者、池田子之吉・一夫婦の第6子(五男)、本名・太作(のち大作と改名)として生を受けた。  頭脳も肉体も取り立てて誇るべき点のなかった池田少年は、極貧の少年・青年期を送っている。  創価学会側が出している『年譜・池田大作』(第三文明社刊、以下『年譜』と略)によれば、7歳頃から、父・子之吉がリューマチで寝込むようになり、この後、家業の海苔作りを手伝い始めたと記述されている。  兄たちの出征でますます貧しくなった池田少年は、午前2時に起床して、海で海苔張り、4時から新聞配達、学校が終われば、海苔はがし、夕刊配達、夜は海苔のごみとりといった生活を送る。尋常小卒業後は、後に萩中(はぎなか)国民学校と改称される高等小学校に進学、卒業後は、新潟鉄工所に勤務。強制疎開や空襲によるバラック住まいなど、池田家の貧困生活は子沢山だっただけに厳しかったようだ。  地元に残る数少ない小学校時代の同級生によると、 「昭和17年に萩中国民学校を卒業する時、池田君は4組にいました。彼はとにかく印象のない男だったね。勉強も目立たないし、身体も強くない。それに海苔漁師はみんな貧乏だった。彼の家はたしか分家で、生活は特に苦しかったはずです。後で創価学会会長があの池田だなんていう話になって、みんな驚いたものですよ」  戦争が終わっても、池田青年の生活は変わらなかった。  その貧しさは、まだ2代会長戸田城聖氏の弟子時代の池田青年が、東大の宗教学者・小口偉一氏に答えたインタビューでも窺える。 〈小学校では栄養不良で三・四回も死にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです。終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性のもので、耳や鼻などみんな悪く、血痰がでてたんです。(略)三年目の八月に芦田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたんですが、給与もなく苦しくてしかたなかったんです。(略)信仰しなかったならば23くらいで死んだだろうといわれています(56年・『新心理学講座4宗教と信仰の心理学』)  当時、池田氏が住んでいたアパート、青葉荘の元管理人(78)が述懐する。 「池田さんは、ここに住んでいました。当時、アパートはコの字型に3棟ありましてね、その一つの東向きの4畳半に住んでましたよ。結核で一時期酷かったようです。祖母が熱にうなされる池田さんに薬を持っていったこともあるそうです。冬の寒い日、熱があるので、池田さんが窓を開けて、頭だけそこから出して寝ていたこともあったと聞きました。当時すでに宗教に入っていて、経を唱える声が大きくて注意したこともあったようです」  極貧の上、結核にまで侵されているのでは、その生活の悲惨さは想像を絶するものだっただろう。  ジャーナリストの溝口敦氏は、『池田大作ドキュメント 堕ちた庶民の神』で、 〈ふつう新興宗教に入信する動機は、一口に病・貧・争といわれるが、池田はそのすべてを体験したわけである〉  と指摘しているが、池田氏の特異な人間性は、こういったどん底の環境の中で形づくられたと思われる。  先の『年譜』は、池田氏と創価学会の出会いを以下のように記している。 〈47年(19歳) 8月14日 小学校時代の同級生に誘われ、創価学会の座談会に、「協友会」の友人二人を伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。戸田城聖と出会う〉  この時、池田氏は、戸田の人柄に感銘して突然立ち上がり、こう述べたという。 「先生が、青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます」  さらに、即興詩を披露して感謝の意を表したことになっている。  これは、学会・池田氏の「正史」だ。が、池田氏の貧困からの脱出ストーリー、学会への入信、さらに現在に至るサクセス物語には、しばしば手が入れられ、美談に仕立て上げられている。実は、この戸田氏との出会いも虚偽である。  ここに登場する三宅宅での出会いを詳細に語りうる人物がいる。その家の娘・三宅妙子さんだ。三宅さんは父親が地元・蒲田の支部長を務め、しばしば自宅で座談会が開かれていた。そこには多くの信者が集った。池田青年は確かに妙子さんの姉が誘ってきた3人の小学校時代の同級生の一人として、座談会に現れてはいる。が、 「いま創価学会で言われているような、池田と戸田先生の伝説的な出会いはそこではありませんでした」  と妙子さんはいう。 「『人間革命』や学会の書物には、美化された出会いが描かれていますが、その日、我が家には戸田先生はいらっしゃらなかったのです。もちろん、池田は詩も詠んでいませんでしたよ。彼は我が家に来てから、10日後に入信します。私は池田にデートに誘われ、日比谷に映画を見に行ったこともあるので、当時のことはよく覚えています。あの頃の池田は、“今に見ていて下さい、僕のこれからを見て下さい”と、よく言っていました。上昇志向が非常に強い人でした」

 

 

 

 

 

金融取り立てで辣腕

 創価学会に入信し、戸田と出会った池田氏は、やがて権力への階段を駆け上がっていく。  大蔵商事──現在の池田氏を語る上で、避けて通ることのできないキーワードである。当時、戸田が自分の愛人らを役員に据え、小口金融、今でいう消費者金融の大蔵商事を設立、ここでメキメキ頭角を現したのが池田氏だったのだ。  池田氏は、この大蔵商事営業部長という職をきっかけに一気にそれまでの貧困から抜け出し、創価学会第3代会長への道を突き進み始めるのである。  創価学会元教学部長の原島嵩氏が振り返る。 「大蔵商事というのは、今のサラ金の原型とでもいうものです。利回りがいいという売り文句で資金調達をし、それを貸し付ける。貸付先の多くは個人、会社もあったようですが、いずれにしても学会員たちでした。彼はそこで、資金調達や取り立てに辣腕を振るい、やがて学会を資金面で牛耳っていったわけです」  どの世界でも、財布の紐を握るものは一番強い。  小川頼宣・創価学会本部元広報部副部長がいう。 「戸田城聖第2代会長は金の面は自分で何とかしようとして、大蔵商事など金貸しや信用金庫などを随分とやったんです。その尻拭いと言うか、酷な言い方をすれば金貸しの手代をしていたのが池田大作です。彼も当初は好きでやっていたわけではないと思うのですよ。しかし、彼には才能があったようで、池田が“ここ金あるよ”という家には、見た目は貧乏な家でも必ず金があった、ということを古参の幹部から聞きました。逆に門構えの立派な家の前で“ここはどうだ?”なんて聞いても、池田が“ここにはない”と言えば、その通りだったそうです」  先の池田氏の小学校時代の同級生は、大蔵商事に入った頃の池田氏をこう語る。 「昭和25年に池上でやった最初の同窓会に現れた時だったな。あの時のことは今でも忘れられない。昭和17年卒業組は今昔会という同窓会を開くんだけど、その時、池田は遅刻してきた。同窓会に顔を出したのは後にも先にもその時だけだよ。遅刻してきたのに、恩師に挨拶もせずに、どっかりと席をおろして、いきなり演説を始めたんだ。大きな声で。みんな驚いたよ。遅刻してきたのに、いきなりですからね。ひとしきり自分の話が終わったら、初めて“おっ先生、元気か”なんて片手をあげた。田中角栄みたいなあれだよ。目立たないだけのあの男が、いつの間にかそういう尊大さを身につけていたんだ」  大蔵商事時代の彼が、水を得た魚のごとく活き活きとし、さらに周囲が驚くほどの尊大さを身につけ始めたのは注目に値する。  やがて戸田から信頼を得た池田氏は本部の青年部を経て、参謀室長に抜擢されることになる。  池田氏は後に、大蔵商事時代について、こんな発言を残している。 「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った。鶴見で、まったく未開の所へ地盤をつくりながら、同時に学会員を起してきた。私は何もないところから闘った。当時は戸田先生が世界一だと云っても通用しない。本当に苦戦の連続であった」 「戸田先生は葉っぱを御札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宣流布の為ならば葉っぱを札にしてみせる、と云う戸田先生のきょう信(原文ママ)が今日の学会を築いた。それだけにきびしかった。学会はこの精神を忘れてはならない」(いずれも68年2月10日の『社長会』にて)  この高利貸し時代は、あらゆる面において、今の池田氏をつくる基となったことは間違いない。  そして58年4月、肝臓と糖尿が悪化して戸田が鬼籍に入った後、池田氏は権力闘争に勝ち抜き、60年5月、第3代創価学会会長に上り詰めるのである。  池田氏はよほどこの大蔵商事時代に触れられたくないのか、先の『年譜』でも、 〈50年(22歳) 11月27日 この年の秋より戸田城聖を顧問として営業を開始していた大蔵商事の営業部長となる〉  と、簡単な記述があるのみだ。  やはり、「消費者金融の営業部長」の肩書は、「池田博士」にはあってはならないものなのだろう。

 

 

 

 

 

怨念とコンプレックス

 長い長い池田氏の人生を語るにはとても紙幅が足りないが、彼の人生を振り返ると少年・青年期の貧困や病気、そして学歴へのコンプレックスや怨念が権力を手中にした途端、それまでの鬱憤を晴らすかのように一気に解き放たれたように思えてならない。  会長就任の5年後、37歳の池田会長にインタビューした評論家・高瀬広居氏の『人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方』(55年)の一節は興味深い。 〈池田会長は、モダンな本部応接室のアームチェアーにアグラをかき直すと、煙草を一服し、静かに、そして激しい語気でいった。/「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」/同席の大幹部数人は深く肯き、息をのんだ〉  何年か前までは、拭い難いコンプレックスの只中にいた青年が、短期間にこれだけの言葉を吐くほど変貌したことに驚くのは、筆者だけではあるまい。  そして同時にこの37歳という年齢で、すでに池田氏を諫める人物もいなくなったのは、学会にとってだけでなく、池田氏本人にとっても不幸なことだったに違いない。  池田氏、そしてその周期は、その後、“池田神格化”のために、滑稽なまでにあらゆる手を講じるようになるのである。  元学会幹部の解説では、 「日蓮大聖人が修行したという由緒ある千葉県の清澄寺というお寺では、寺を初めて訪ねた池田氏が、境内にある杉の大木をなでながら“久しぶりだな”と呟くエピソードがあります。池田先生は700年前の日蓮大聖人の事を知っていらっしゃる。きっと大聖人の生まれ変わりに違いない、と会員に思わせるわけです。しかし、その木は実際には樹齢400年だったそうです」  また、池田氏はよく会員の前でピアノを弾くが、これも鍵盤を叩くだけで、実際には自動演奏のピアノだったり、うしろからメロディーを流しているのだそうだ。それでも女子部員たちは感激で、涙、涙なのだという。 「池田が訪れる会場周辺の花を咲かせるという古典的な演出もあります。期日に合わせ、地元の人が何週間も前からドライヤーで花の蕾を温めるのです。多くの会員が梯子を持ち出して延々とその作業を行い、見事、満開の桜を咲かせたこともあります。先生のお陰で一夜にして桜が咲いた、というわけです。池田は“見事だ。よくやったね”と満足気に言い、それを聞いて会員達はまた涙を流すのです。魚など1匹もいないドブ池に事前に鯉を放流して池田に餌を撒かせ、“ここには魚はいないのに、先生が餌付けすると鯉まで現れてしまった”と会員を感激させた例もあります」(同)  冒頭にも触れた異常な勲章や博士号のコレクターぶりといい、池田氏がここまで自分を神格化する根本は一体なんなのか。  前出の原島嵩氏によれば、 「やはり根底にあるのは池田のコンプレックスでしょう。例えば、彼の学歴は富士短大中退です。しかし、20年近く経ってから、卒論を桐村という教学部の幹部に書かせてまで卒業しました。幹部には東大卒や早慶卒なども多いのですが、彼らを前にして“お前たち、馬鹿だろう”などといっては“はい”と答えさせ、悦にいっていましたね。最高学府を出た人たちをひれ伏させることに彼は喜びを感じるわけです。そしてもう一つは、権力へのコンプレックスです。彼は57年の参院補選で選挙違反で逮捕(大阪事件)されたわけですが、この時に権力の恐ろしさを学び、復讐を誓い、それが今の行動につながっているのだと思います」  こうして独裁者となった池田は、折々にこんな発言を残すようになる。 「今の政治家は、やれ勲章を買うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。私ども創価学会員は、位もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」(63年8月3日付、聖教新聞) 「勝つか負けるか、やられたらやりかえせ。世間などなんだ。私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。(中略)反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ」(埼玉指導 89年3月12日) 「2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい。(略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(94年9月2日付、聖教新聞) 「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」(96年11月3日 『創価同窓の集い』にて)  その言葉の激しさには、やはり驚嘆させられる。創価学会が持つ、敵対者への激しい憎悪や復讐心は、彼の屈折した半生から出てきたものと思わざるをえないのだ。

 

 

 

日本支配の欲望

「彼特有の他人や敵への異常な攻撃性というのは、持って生まれた性格の他に自身の極貧、病弱体質、能力の凡庸さへのコンプレックスからくる世間への怨念が影響していると思います」  というのは、ジャーナリストの乙骨正生氏だ。 「池田氏は口癖のように“自分は戸田先生の復讐のために立ち上がった”“師である自分が迫害された時は、自分の仇を討ってくれ”と言いますが、これは自分を認めようとしない世間への強い恨みに満ちたものだと思います。海外から何百という勲章をもらおうと、池田氏をよく知る日本では、静岡の富士宮市の名誉市民以外、なんの称号ももらえないのです。海外の大学から名誉教授の肩書をもらい、様々な勲章をもらって悦にいっているのは、いまだにそのコンプレックスを克服できない証拠ではないでしょうか」  宗教学者の山崎龍明氏(武蔵野大学教授)も、やはりコンプレックスをキーワードに、こう総括する。

 

 

 「オウムの麻原もそうでしたが、私もやはり池田氏を考える場合にこの言葉が第一に浮かびます。大森海岸の海苔屋に生まれ、学歴もない彼が、社会的に認知されている人をコントロールできる快感を覚えたのではないでしょうか。彼らの共通点はエリートを支配することに喜びを感じることです。池田さんは実は非常に小心で、自信のない人だと思います。自信あるリーダーというのは、相手を一方的に支配しようとはしません。

 

気が小さいからこそ、怖いのです。

しかし、問題はそのリーダーに率いられ肥大化した集団が、信者どころか日本全体を支配しようとしていることです。宗教、教団が持っている暴力性、排他性、差別性というものは物凄く強い。

 

ヨーロッパの歴史を見れば分ると思いますが、肥大化したこういう集団を動かした時には無限の力が働き、人間一人一人を蹂躙していくことは歴史が証明しています。

 

排他、除外というものは、宗教によって美化されます。普通の組織、政治とは違った、宗教自身の持つ恐ろしさを忘れてはなりません」  日本人は、この特異な人間性を持つ人物にわが国の将来を託すのだろうか。それは果たして国民の総意なのだろうか。

 

  衆院でわずか34議席をとるだけの政党と、その事実上のオーナー・池田大作氏に国の政策を壟断されることを容認するとしたら、それは民主主義の放棄に等しい行為なのではないか。

デイリー新潮編集部

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