釈尊は「死苦」に苦しみ、様々な方法を実行した。

しかし、全て失敗した。

 

そこで、

「死苦が自己の中で起こってくるプロセス」を客観的に観察して、

その「原因」を思索した。

禅定において、「死苦」が起り、また「死苦」が消える。

その原因について、深く、考察した。

釈尊は、軍人・武人であり、合理的に考える人物だった。

さらに、直観的ではなく、分析的に、具体的に思索する人物だった。

 

その結果、

「自己」が「実体」ではなく「現象」である

と発見した!

 

それによって、

「それまで世界の全て」が、今までと全く違って「観えて」きた。

 

ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』という戦い

 

ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』において自らの『論理哲学論考』を乗り越え、哲学問題をまったく新しい光のもとにおいた。従来の問題に新たな解答を与えたというよりも、むしろそっくり哲学の風景を変貌させたのである。読者は、本書によってその光のもとに導かれ、『探究』が開いた哲学的風景に出会うだろう。

 

==或る書評より

 

正直ウィトゲンシュタインは苦手である。『論理哲学論考』にせよ『哲学探究』にせよ、ちゃんと読んだことがないしあまり読む気にもなれない。数学の証明のような、短文が並ぶあの形式が生理的に受け付けない。
 しかしウィトゲンシュタインの入門書はよく読むし、ほぼ例外なく面白い。実際のところ、現在日本で活躍している(哲学研究者ではなく)哲学者のほとんどは、ウィトゲンシュタインの影響を強く受けている。本書の著者である野矢茂樹しかり。永井均しかり。入不二基義しかり。
『論理哲学論考』の中の有名な「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」というフレーズについては、その入不二があるインタビューで語った「2進法の亀裂」ほど的確な比喩はないように思われる。2進法の世界は0と1だけで完結している。すなわちそこに2は存在しない。にもかかわらず2進法の世界は2によって絶対的に支配されている。

この現実世界も同じようなことが言えるのではないか。

この世界はおそらく何らかの法則によって支配されている。

しかしその法則を、この世界内の言葉で表現することはできない。

ゲーデルの不完全性定理をこれほど明快に表現している事例をほかに知らない。
 本書において野矢はその『論理哲学論考』から『哲学探究』へのウィトゲンシュタイン哲学の変遷を「空間から時間へ」という言い回しで総括している。『論理哲学論考』は言葉の意味をとらえるのに論理空間を用いた。

しかし言葉の意味は実はそれが使用されることによって、

すなわち時間の中で初めて形成される。

それは言い換えれば言葉と行為は不可分であるということになるだろう。

 

ウィトゲンシュタイン(および野矢)は言語の理解と音楽の理解をパラレルに考えているが、そのことは言語を使用する(できる)人間だけが音楽を鑑賞できるという事実とも対応しているように思われる。


 実際子どものころ(7歳離れた弟が生まれるころ)、不思議で仕方がなかったことがある。

生まれてきたばかりの赤ん坊に、どうやって言葉を教えるのか。そもそもそんなことが可能なのか。

言葉を使って教えようにも、相手はその言葉を全く知らない。

言葉を使わずにどうやって言葉を教えることができるというのか。

今にして思えば哲学的だったその問いも、やがて弟が生まれ言葉を習得していく中で忘れ去られていった。

本書を読んでその忘れかえていた問いを改めて思い出させてもらった。

なぜだか分からないが、ともあれ赤ん坊は言葉を使うことができるようになる。

だから何も問題はない。

問題はないにもかかわず、その「なぜ」にウィトゲンシュタインはこだわり続けた。

けだし哲学とはそういうものなのであり、だからこそウィトゲンシュタインは偉大な哲学者なのだろう。

だれも立ち止まらなかったところで立ち尽くしているその姿こそが。


 野矢は言葉を慎重に選んで、一歩ずつ読者によりそうようにして、難解なウィトゲンシュタイン哲学を懇切丁寧に解説してくれる。だから読者はつい(自分も含めて)、読んでもいないウィトゲンシュタインを理解したような気持ちになってしまう。本書に難点があるとすればそこだろう。本書のような入門書を足掛かりとして、本来であれば原典に挑戦しなければならないのだろうが……。

 

==或る書評より

①『論考』の最後にウィトゲンシュタインは、「語り得ないことについては沈黙しなければならない」と述べた。

言語で事実として語り得ないことには宗教・神・価値等が考えられる。

後期ウィトゲンシュタインが思考したのはこの「語り得ないこと」なのではないか?
①『探究』には数えきれないほどの「言語ゲーム」の事例が紹介されている。

例えば、冒頭の店員と客の会話を見ると、客は「赤い・リンゴ・5」と記載されたカードを店員に見せると、店員はカタログを客に見せ、客が示した品物を5個用意した。この客と店員のやり取りが言語ゲームとして成立するのはなぜか?
②客の意向と店員の受け止め(理解)が異なる可能性が「語り得ないこと」であるからだ。

客は「赤いリンゴを5個買います」という意味でカードを示した可能性があるのに対し、

店員はカタログを客に示して欲しいリンゴを決めてもらい、

それを5個用意すれば良いと受け止めたのである。
③この客の意向と店員の解釈のズレの可能性こそが、

「言語ゲーム」を成立させるのであり、それは「語り得ないこと」を意味する。
④このように考えると、前期ウィトゲンシュタイン(『論考』)と

後期ウィトゲンシュタイン(『探究』)は接続するのではないか?
両者の「断絶」よりも「接続」の可能性を読み取ることが、

ウィトゲンシュタインの思索の深まりを理解することにつながるように思われる。
様々な解釈と読解の可能性こそが、『哲学探究』の無限の可能性と豊穣さを示しているのではないか?
哲学的思考とは何か、本書が示している。
お勧めの一冊だ。

 

〇 〇 〇

 

 

「火事だ!」という「言葉の意味」は、

それを聞いた人の「反応の行動」そのものである。

 

ある人は、危険と知って、逃げ出した。

ある人は消防士であり、消火活動を始めた。

 

ヴィトゲンシュタイン

 

『哲学探究』とはいかなる書物か:

 理想と哲学

 2018/10/3 鬼界彰夫(著)

鬼界 彰夫(きかい あきお)

1954年京都府に生まれる. 
1990年京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学 Ph.D.(ニューヨーク市立大学). 
現在:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授. 
著書:『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書, 2003年), 
『生き方と哲学』(講談社, 2011年)ほか. 
訳書:『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』(講談社, 2005年)ほか.