「張霖爆殺事件」首謀者たちにとっての「不本意な結末」とは?現地総領事館と関東軍の「二重外交」 (msn.com)
「張霖爆殺事件」首謀者たちにとっての「不本意な結末」とは?現地総領事館と関東軍の「二重外交」
井上 寿一 によるストーリー • 11 時間前
昭和の戦争では、何が起こっていたのだろうか。
歴史の受け止め方は人それぞれであるが、実際に事件に関わった人たちが、何を考えていたのか。
権力者は、不確かな情報をもとに、時間の制約を受けながら、
確信を持てないままに、決定を下す。
そのような過程を再現するには日記がうってつけである。
本記事では、前編『「張作霖爆殺事件」で天皇が内閣にもった「不信感」…天皇の「ご意見」と内閣の「思惑」の隔たり』につづき、現地総領事館と関東軍の対中政策をめぐる二重外交や、張作霖爆殺事件の責任の行方についてくわしくみていく。
※本記事は井上寿一『昭和の戦争 日記で読む戦前日本』から抜粋・編集したものです。
二重外交
斎藤恒関東軍参謀長にとって、張作霖爆殺事件はあらかじめ知らされていた。そう読める記述が日記にある。1928(昭和3)年6月3日の日記の一節は「軍憲が作霖を殺さんとすとの計画は同人〔河本大作関東軍高級参謀〕によりてならずやと思われ」と言う。翌日、首謀者が誰だったかを含めて、このとおりになる。
同じ日の日記の記述はつぎのように続く。
「本日〔林〕総領事が電報を見せた。公使が軍憲で作霖を殺すことのあるを示した。之れは多分我等にあてつけならん」。
現地の総領事館筋も事件の発生を予測していた。林総領事は起こり得る張作霖殺害の責任を関東軍に「あてつけ」た。
現地では総領事館と関東軍のあいだで、対中政策をめぐる二重外交が甚だしかった。東京の本省の意向を受けた総領事館は、対列国協調・経済優先路線だった。対する関東軍は、「満蒙権益」を守るためならば、軍事的手段に訴えるのも辞さなかった。
総領事館も関東軍も相互に手の内を明かすことなく、相手の情報収集に努めていた。たとえば6月6日の斎藤日記には「不相変〔総〕領事館は我等の偵察を通信員になさしむ」との情報が記されている。斎藤は「此僻をなんとかし度い」と考えた。
しかし総領事館の予測どおりに張作霖爆殺事件が起きると、総領事館と関東軍の力関係は逆転する。6月8日、斎藤は林と会って、「今後打明けて話をなし間に色々の事なき様にと申込」んでいる。
その後、張作霖の死亡が確認される。斎藤の6月18日付の日記につぎの記述がある。
「林総領事へ毎週会議を行う事を云うて同意を得たり」。
総領事館側からすれば、「通信員」に「偵察」をさせるまでもなくなった。関東軍から直接、情報を得ればよくなったからである。実際のところ、斎藤は早くも翌日、総領事館を訪れている。張作霖爆殺事件は現地での二重外交の是正をもたらした。
不発に終わった謀略の意図
二重外交の是正は関東軍が後ろめたくなったからではなかった。田中内閣が対中政策の立て直しを図ったからである。事件後、田中内閣は関東軍の増派を認めなかった。済南事件解決交渉も内閣が参謀本部から主導権を奪い返した。済南事件解決交渉がはじまる。山東撤兵もはじまる。
この年(1928〈昭和3〉年)の8月、田中は政友会懇談会において明確に述べている。
「支那は固より我が帝国の領土に非ず、全く他国であり、東三省〈「満蒙」〉は他国の領土であることは言をまたぬ」。
田中は中国本土に対する内政不干渉と同時に、満鉄付属地の外に出ようとする関東軍の抑制を図った。
田中はもう1つの対中国懸案事項だった不平等条約問題の解決をめざす。かつてアヘン戦争に敗れて1842年にイギリスとのあいだで不平等条約の締結を余儀なくされた中国は、つぎつぎと欧米列強および日本とのあいだで不平等条約を結んだ。その後ようやくこの時期になって、北伐の進展にともなって、蒋介石は条約改正の国権回復運動を展開するようになった。不平等条約問題が解決すれば、蒋介石の中国と日本とは対等な関係になる。
張作霖爆殺事件後の対中国政策の軌道修正は、田中に対抗する民政党系の陸軍大将宇垣一成も認めている。
10月12日の宇垣日記の一節は言う。
「盛岡にて首相と時局に就き会談せし時の話が彼の本音であるとすれば、
満蒙を領土と或は保護領とするの意思は最早有して居らぬ。
単に権益の擁護増進の範囲を出でざる様である。
南方派に対しても関税及条約の改正にも近く応ぜんとするの意向であるらしく、何等過去の内閣のものと出色はなく……」。
田中の対中政策の行き過ぎは修正されて、前若槻内閣(憲政会内閣)と変わりがないものとなった。
宇垣はそう判断した。
張作霖爆殺事件の首謀者たちの当てが外れたことはほかにもあった。
蒋介石の国民党軍は、張作霖がいなくなった北京に歩を進め、6月7日に北伐の完成を宣言した。
蒋介石による中国本土の支配が確立することになった。
北伐を容認し東三省に対する中国の主権を認める立場の田中であっても、
東三省の支配者は蒋介石に対して自立していなければならなかった。
7月18日、田中は林総領事に、南(蒋介石)北(張学良)妥協に対して警告するように指示している。
ところが林の観測はちがった。
南北妥協は避けがたかった。
南北妥協後も日本は張学良を支持すべきである。
林はこのように意見具申した。
欧米諸国と比較して、日本の遅れは否めなかった。
この年、中国は12ヵ国と関税自主権回復の新条約の締結に成功している。
日本はこれからだった。日本には余計な負荷があった。
済南事件をめぐる懸案解決交渉もしなければならなかったからである。
1928(昭和3)年末、12月29日午前7時、
張学良の支配する奉天城内外に国民政府の旗、青天白日旗が翻った。
国民政府に対する張学良の服従の意思表明だった。
蒋介石は中国全土の統一を達成した。
張作霖爆殺事件は、首謀者側の意図とは正反対に、
清朝中国崩壊後の軍閥割拠から蒋介石のもとでの中国の統一をもたらした。
謀略の意図は不発に終わった。