道元は新宗派「原始仏教」を興す為に『護国正法義』を朝廷に提出した。

が、比叡山の天台宗の高僧に吟味され、

正当な評価である「小乗仏教の独覚乗」と判定されて、京都の郊外であっても、

比叡山の僧侶軍団から迫害され、1243年、北陸に逃げざるを得なくなった。

 

後に、

「朝廷」ではなく、新政権「鎌倉幕府」を利用しての布教を考え、鎌倉に行った。

しかし、

「鎌倉幕府」は宋代の「五山十刹制度」をまねて、

平安仏教と奈良仏教を支配することを目的としていたため、

道元の「原始仏教」の布教は相手にされなかった。

だから、鎌倉においては、屈辱的な「俗人」の家に泊まり込む羽目になった。

半年の努力が失敗し、永平寺に戻らざるを得なくなった。

 

弟子たちは「中国・臨済禅宗=日本達磨宗」に洗脳されていたので、

それの教化を断念し、それまでの著作を旧草75巻『正法眼蔵』として体系化し、

新しく「原始仏教」を前面に出した新草12巻『正法眼蔵』を執筆し始めた。

 

つまり、

当時の「弟子」「世間」は「日本教」であり「非仏教」であり、布教を断念した。

『正法眼蔵』全87巻を残して、

後世の日本人に「正伝の仏法=原始仏教」を託した。

 

だから、現代の日本人に向けて、『正法眼蔵』全87巻は存在するのである。

 

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ただし、残念なことに、増谷文雄先生においても、

「生死の巻」はなくてはならないものと、妄言する事態になってしまっている。

「生死の巻」は『正法眼蔵』から排除された、「誤りの教え」なのである。

「日本教」であり「日本天台本学思想」「日本達磨宗」、つまり「非仏教」なのである。

 

この増谷文雄先生の事例は、絶望的な状況を示している。

「日本人の精神構造」では「原始仏教」は理解できないという事実である。

なお、増谷文雄先生は、法然上人の浄土宗の僧侶でいらっしゃいます。

「文雄」は「僧名」であり「ぶんゆう」である。