「朝鮮」民族の、大不幸!

「女真族の傭兵集団」が「高麗国」を軍事クーデターで乗っ取って支配した。

これが李氏「朝鮮」王朝の「五百年間」と続いた。

 

中国・明王朝の軍事力を後ろ盾にしており、

明の皇帝に国の名前を授けて貰い「朝鮮」となった。

つまり、中国人が名付けた国名・名前を、自称している。また、

「国旗」も中国の迷信・「陰陽五行説」である「道教&朱子学」そのものである。

また、「個人の名前」も、朝鮮式を止めて、中国人の名前を真似た。

李・承晩、金・日成、朴・正熙、金・大中、文・在寅、

 

日本では、継体天皇の本名は「・・・

 

 

他方、

日本は、天智天皇が、自分で「日・本」と名付け、

中国人に「ジツ・ポン」と発音され、

これを、マルコポーロが「ジャ・パン」と伝えて、世界中に広まった。

 

最大の不幸は、「死者がこの世で生き続ける」と信じた。

だから、死者に食物やお金を捧げ続ける。

これは、<直系の長男しか>できない行為と、信じ続けた。

(だから、「娘に婿を取って、家を継ぐ」がざらにあるという日本とは、全く異なる。

「男系の血筋」が必須なのである。)

 

これをやめる事が出来ないのは、

自分が死ぬ番になると、食物やお金がなくて、困る、と恐怖するからである。

 

死者が、完全に、子孫を支配しているのである。

 

朝鮮王朝の悪女の「閔妃」を、悪女と言ったら、子孫から名誉棄損を訴えられ、

愚かな「現在の裁判所」が、有罪とした!

歴史上の人物の評価を、その証拠を挙げて「悪女」と規定するのは、

思想の自由であり、日本では、当然無罪となる。

 

しかし、朝鮮民族では、

死者がこの世に生き続けるので、「閔妃」の呪いが恐ろしいので、

子孫が名誉棄損裁判を起こす。

それを、裁判所の裁判官まで、認めて、有罪とした。

 

つまり、歴史の論文で、「閔妃」を悪女と言えなくなった。

 

前近代の民族である。

 

 

 

 

『朝鮮民族を読み解く

北と南に共通するもの』 (ちくま学芸文庫)

2005/3/1 古田博司(著)

 
 

 

北朝鮮・韓国ともに近代化に向けてじつは共通の苦闘を演じてきた。

宗族を中核にした自分たち「ウリ」とそこから排除された他人たち「ナム」との間の深淵をどのように埋め、国民国家としての一体感を形成するのか?

かたくなな「儒」の世界と大らかな「野」の世界に接点はあるのか?

「恨(ハン)」はいかにして解けるのか?

朝鮮文化の根底にある思考行動様式を、日常生活にさまざまに現れた

具体的なエピソードを通して、初心の者のみが抱きうる素朴な疑問・関心をテコに、

鮮やかに読み解いた、平明で奥深い朝鮮文化入門書。

 

 

古田/博司
1953年生まれ。慶応大学大学院東洋史専攻修士課程修了後、ソウル大学大学院で韓国語教育法を学んだのち、延世大学、漢陽大学などで日本語講師を務める。滞韓6年の後、帰国。下関市立大学を経て、筑波大学大学院人文社会科学研究科教授。東アジア政治思想専攻

 

==或る書評

一般的に日本は「道徳的志向性」が欠如した社会???なので、

韓国人が何を怒っているのか、よく分からないことがあったりする。
目の前にいる韓国人・朝鮮人を理解するために、朝鮮思想史の専門家が書いた平明で奥深い一冊である。
(2005年に同じものが文庫化されている)

歴史的視点、政治的視点、宗教・思想史的視点、韓国人と直接対面する一個人の視点などから、立体的に朝鮮民族の思考行動様式を述べており、

「韓国+」「北朝鮮-」といった眼鏡を通さずに民族の本質を理解できる。
ただし、中国国内の朝鮮族、日本国内の在日の人たちについては、基本的に扱っていない。

ウリとナム、宗族、ピエタス・インプット(情注入)、共同会食、プマシとブッタク、主体思想、
儒教朱子学、道徳志向性、事大と小中華、儒と野、理と気、外来と土着・・・等々のキーワードで、
朝鮮民族を北も南も一刀両断で理解させてくれる。

しかし、その民族の基盤には「率直・単純・端的・直入・きんきら・のびやか・あっけらかん」なる一なるもの“サラム”(ひと)があるという。

本書は、仕事や留学、日常生活で韓国人・朝鮮人とつき合わなければならない人に最適な一冊であろう。
相手のことがとてもよく理解できる。
私も今まであった幾人もの韓国人のこととを思い出し、大変よく理解できた。
また、韓ドラや韓国映画を見る際にも、こういった知識があると一層深く楽しむことができるだろう。

若者には、取りつく島のない韓国人に対して“嫌韓”になったり、ヘイト・スピーチに参加したりする前に、読んでおいてほしい本だ。

なお、Wikiによれば、氏は日韓関係について、
日本は韓国に「教えず、助けず、かかわらず」の「否韓三原則」

対応すべきと主張しているそうだが、
本書を読めばその意図するところが良く理解できると思われる。

 

 

==或る書評

本書は表面的では無い朝鮮民族の精神構造(メンタルモデル)を、その歴史的な背景にまで遡り本質的に理解するのに極めて役に立った。特に、昨今(令和元年)の日韓の険悪な状況における

韓国側の一見理解不能な反応を率直に疑問に感じていた立場からすると、

ある意味その疑問のかなりの部分が氷解したとも言える。(なるほど、そういう気持ちからなのか〜)

朝鮮は大陸の中心部から離れた半島に位置する地理的条件から、古くはモンゴルの遊牧民や歴代の中国の王朝(明、清)、そして日本や米国から抑圧され続けてきたという

被支配者意識がその根底にあるが、唯一の宗教として認知されてきたのが儒教、

それも朱子学だったというところに現在に至るまで決定的な影響を及ぼしてきた

大きな原因がある。

それは朱子学の立場からすると大陸の辺境に自らの種子(朱子)を播いて存続を図ったとも言える。

加えて朝鮮の小中華思想がそれを助長したと思うが、それは中国に対するコンプレックスに端を発した歪んだプライドを醸成し、それが精神的な安心感や一方的な楽天主義に繋がった面もあると思う。ある意味、精神衛生上の不可避な自衛反応だったと言えるかもしれない。

いずれにせよ、

朱子学の理に基づいた思想が原因で、

互いが自らの道徳指向性において

他者に比較優位に立とうとする集団間闘争を生み、

それが規模的に発展して、

社会における様々な組織間の対立の要因となり、

ついには国家レベルでの反日の構造にも強く影響している

のかもしれない。

(もっとも反日気運は戦後の初代政権の国内支持獲得政策から発した面も大きいが)

そして基本的に

自らの集団(ウリ)に属さない外部(ナム)は悪

という前提があり、

ウリがナムに対抗する理論武装として、

自らの一方的な善を主張し相手の非道徳性を批判する

ことにより、

正当性で相手を凌駕しようとするのである。

それは武力攻撃的な性格というよりも、

ウリの言語思考による過剰な自己防衛戦略

のようにも思われる。

別の見方としては、組織間の親密度をその関係距離(身内←→他人)と親密度(高い←→低い)の関数で表現すると、日本では比較的穏やかに変化(アナログ的)するのに対して、朝鮮ではウリの内外では親密度は急激に変化(デジタル的)するのである。もし、その親密度関数を微分したならば内外を隔てるポテンシャルの壁として表現できるだろう。(壁の高さは日本は低く、韓国は高い)

また、日本では親密度の距離によらずに相手には相応に気を使う(エネルギーを消費する)が、一方の朝鮮では身内と他人を分ける境界を維持するには多大なエネルギーを消費するが、ウリ内やナムに対しては気を使わずに極めて省エネルギーなのであろう。(日本は身内に対しても他人に対してもそれなりに気を使うが、朝鮮では身内に気を使わないのと同様に他人に対しても気を使わない。但し他のウリ集団との間では共同食膳のような関係性維持の費用が大きい。)

本書には少し情報が古いが北朝鮮についても興味深い記載がある。戦後の北朝鮮も基本的には前述の考え方は同じであるが、現在の韓国との決定的な相違は体制的にウリの中心が金王朝であることである。筆者曰く、北朝鮮がウリ式社会主義と表現されるのはその為である。

とかく日本から見ると理解に苦しむ昨今の韓国の反応ではあるが、彼らは彼らなりにウリとナムの考えをベースとして我々日本人には全く気を使うことなく(それがナムに対する自然な態度)、言いたい放題国際的に主張していると考えれば腹が立つにせよ、その感情反応の構造が見えるようになってくる。それは韓国に対する日本の効果的な戦略を考える際に極めて重要となる。

願わくば、今後韓国(北朝鮮)に対しては、自らの伝統としているウリ思想を護ることは結構だが、より高い観点からウリを再定義して国際社会においても受け入れられる形に自己変革していくことを期待したい。具体的には内外を隔てる境界を取り除くための世界との文化&技術交流の活性化であり、相互依存社会の構築であり、ウリを絶対視しない思考の柔軟性である。日本も自国とは歴史的にも考え方も大きく異なる韓国という国を正確に理解して、組むべきところ、組むべきではないところを冷静に見極めて、お隣さんとの賢い付き合い方を学んでいくべき時だろう。

 

 

 

==或る書評

 本書が文庫化されたのは金正恩や文在寅の登場前。
 初出に至っては、北朝鮮の邦人拉致もまだ"疑惑"だし、韓国は1997年の通貨危機も経験しておらず、日本に対する様々な「い、や、が、ら、せ」も明るみには出ていなかった。

 時事問題の解説なら明らかに賞味期限切れなのだが、さにあらず。
 ポイントは副題のとおり、「北と南に共通するもの」についての論考であること。

 戦後の昭和には、南は悪の軍事独裁、北は楽園だとマスコミはこぞって印象操作し、平成になって南が"民主化"し、北の楽園神話が崩れると、手のひら返しで韓国サイコー、そして北朝鮮には可能な限り言及しないという姿勢に変貌した。
 一般人が朝鮮を知る機会は少なかったと言えよう。
 それが漸く、サッカーワールドカップ2002を経て、李明博政権の後半から、朴槿恵、文在寅と移るに連れ、韓国の最低な行為が次々と暴かれることで、あいかわらずの北朝鮮と較べて、「結局南も北と大して変わらんのじゃね?」と思う日本人も随分と増えた。
 しかし、なぜ朝鮮人がそんななのかの理由をきちんと説明できる人は、なかなかいないのではないだろうか。

 本書は、多くの日本人にとっては、なぜ半島の人々がすぐに捏造だとバレるような嘘を大声で発信し続け、日本にマウントしてくるのかについて、掘り下げて解説したものであり、その原則は、韓国だけでなく北朝鮮にも適用されることを示している。
 だからこそ、賞味期限切れにならず、今読んでもタメになるのである。

 現在中途まで読んだ『銃・病原菌・鉄』に書いてあったことだと思うが、狩猟で暮らしていた人間が、農業や牧畜を覚え定住するに従って、より大きな集団に成長していくと、集団の中でのもめごとの相手は、よく見知った相手から、見ず知らずの他人に変わっていく。
 前者は血縁集団の中の長老などが裁定し、地縁集団でも「村の顔役」といった重鎮の人物が裁定することになるだろう。しかしさらに社会が広がって、もめごとの相手のほとんどは見ず知らずの他人という状況になれば、彼ら双方の背景に通じた長老などはいないから、公平な裁定のためには公のルール(法律)を作って運用する必要が出てくる。

 ところが、権力側が公正に法律を運用できないような国だと、民はそれに頼ることはできないので、それに代わる疑似家族的互助組織を作らざるを得ない。
 それは当然権力側からは睨まれることになるので、それを跳ね返せる宗教集団や、あるいは秘密結社化して表面からはシステムがよくわからないようにする。
 チャイナの場合は、それが幇であり、青幇や紅幇が有名である。
 これらを不気味な犯罪組織とだけ認識するのは間違いだろう。なにせチャイナは国そのものが犯罪組織なのだから。

 ところが朝鮮の場合、歴史的に幇ですら経験してきておらず、血縁・地縁集団の意識を色濃く残したまま、現代に来てしまった。
 その色濃い血縁・地縁が重層的に重なった中にあるのがウリ意識である。
 そうして、よそ者(ナム)からの様々な圧力や攻撃をウリで団結してはねのけるわけだ。言葉を変えれば、ウリがよければナムはどうなろうと関係ないのである。

 著者はこのウリとナムの間の断絶が根深いと指摘している。
 ウリは最中央の自分から、外側に家族、堂内(チバン:四代前までの血族)、門中(ムンチュ:分家同姓血族)、宗族(チョンチン:同本同姓血族)、同郷同学、知人と広がっていく。
 この知人がポイントで、それぞれの関係性においてウリになったりナムになったりするわけだ。
 ここで彼らは、知人をウリと認めるためにある行為を行う。
 著者曰く、ピエタス・インプットすなわち、情の注入である。

 彼らの中では、「親しき中には礼儀なし」
 迷惑をかけあうのが、情の注入というか確認というか、これによって、本来ナムの知人もまたウリになる。お互いの甘えが唯一の信頼となる世界だ。

 ここが日本人との感覚のズレとなる。
 言うまでもなく日本人の意識では、「親しき中にも礼儀あり」
 ひとつには、この感性の違いが日朝間の友好を難しくしているのだろう。
 朝鮮人曰く、日本人は水臭い、そっけない、情がないそうだ。

 こちらからすれば、そんな甘えの注入はうんざりするのだが……。

 著者の経験談として、当時山口県にいた彼のもとに、韓国人の友人からある日連絡があったという。
「今度日本に行く。いついつに東京に着くから案内してくれ」
 これを断ると、あいつは情がないと友人関係は壊れてしまうそうだwww
 だが、関係を壊すことなく断る方法もあるという。
 それは、これを断るのは、俺の所為ではなく責任はお前にあると理解させることらしい。

 なるほど。
「悪いのは俺ではない。悪いのは俺以外の誰かだ」
 繋がってくるなぁ。
 ウリかどうかの確認というだけでこれだから、ウリと他のウリ(つまりナム)の間では、当然ながらどちらが観念的に正しいかということでマウントを取りにいく。
 無数のウリの間では、マウントを取ったり取られたり。
 どうにも他に責任を押しつけられない状況が長く続くと、有名な恨(ハン)が生じる。
 しかしすべてのウリたちがマウントを取れる対象がひとつあるという。
それが日本だ……。

 しかし日本にはマウントを取って精神的に勝利したところで、この精神的勝利の根拠、観念となっているのはあくまで彼らが長年培ってきた朱子学に起因する独りよがりのものだから、日本人とは話がかみ合わない。
 実体として日本に勝てる領域はそうないから、彼らの日本に対する恨は溜まり続ける。

 うーむ。面白いネタに満ち満ちていて、とても書ききれない。
 上に書いたのは、朝鮮人が朱子学をピーキーに研いできた「理」の世界のことだが、一面では、朱子学の皮を被せていない「野」の世界もあるという。
 李氏朝鮮時代、両班の間で結婚があれば、結納物を相手の屋敷まで運ぶのは下人(つまり「野」の庶民)だったが、下人はすぐに運ぶのをやめて座り込んでしまう。儀式化されていたそうだが、相手の両班は、運んでくれと飲食物で饗応し、下人たちはまた運び始めるが、また座り込む。これを何度となく繰り返すという。最近は知らないが、1970年代か80年代までは、下人を友人に変えて、この結納の儀式が続いていたそうな。
労使関係のストライキの構造とまったく同じじゃないか!
 よく李氏朝鮮末期の西洋人の朝鮮旅行の体験記を以て、当時の朝鮮が如何に汚く、遅れた社会で、両班は庶民を虐げて生き血を啜っているばかりだったと例に挙げることも珍しくなくなったが、著者は、一方的な搾取だけでは、李氏朝鮮は400年以上も続かったのではないかと述べている。両班に対する「たかり」で搾取の一部が還元されていたのではないか……。
 いやもう繋がりまくり。

 ちなみに「野」にもとづいた文化で、大韓民国国宝第121号に指定された仮面劇に出てくる数え歌では、五はおしっこで十はお〇〇こだとか。いや野生だ。トンスルだけじゃなかったwww

 ところで、彼らの根拠のないプライドについて。
 李氏朝鮮時代の前半、世宗のあたりだが、儒教の教えは我々の方が明よりも正しく伝えられていると豪語したそうな。
 そのあたりから、

「我々は東方礼儀の国で、明よりも勝~利」
 とプライドが肥大し始めたが、17世紀になって明の中華王朝は、朝鮮が蔑んでいた満州族に取って代わられて、その支配を受けなければならなくなった。
 ここに「現実世界」と「精神世界」の乖離が本格的に始まり、現実的にはどれほどショボかろうと、精神的に勝利し続ける癖ができてしまったという。これが上に書いたマウントを取りに行く行為につながり、なにがなんでもの精神が、たとえ嘘でも大声で叫び続けるようになり、気がつけば、稀にみる偽装大国との評価が……

 この流れは、本書でも解説が少なかったところだろうか。
 なにせ本書は26年も前の解説。
 本書の記述も、朝鮮人をよく理解して仲良くなるためのツールとして書かれており、後の「教えず、助けず、かかわらず」の悟りまでは至ってない。
 著者の近作を読んでみなければ。

 これだけ書いても、結局北朝鮮の事例を書けなかった……
 一言だけ書いておくと、金親子は自らを全国民の親(オボイ)として、実の父母より尊いものだと洗脳を進めて、ウリの世界とナムの世界をひとつにまとめようと数十年を費やしてきているとか。