『魏志倭人伝の考古学』 (岩波現代文庫)

2003/7/17 佐原真(著)

 
魏志倭人伝に記された邪馬台国などの国々…。
そこでは一体どんな生活が営まれていたのだろうか。
魏志倭人伝の記事に、考古学的事実を照らし合わせ、また、民俗学・人類学などの知見も織り交ぜながら、情熱の考古学者が卑弥呼の時代の暮らしに迫る。
完成に強い意志をもちながらも病に倒れた著者の、
最新にして最後の到達点。
 
 
 
佐原/真
1932年、大阪生まれ。大阪外国語大学でドイツ語を学び、京都大学大学院で考古学を専攻。1964年から奈良国立文化財研究所に勤務、1993年国立歴史民俗博物館副館長、97‐2001年館長。2002年7月10日没
 
==或る書評
飾らない語り口で、魏志倭人伝の世界を考古学的な成果で肉づけしていくという、面白いつくりの書である。著者ご自身のお説はさらりと出すが、それを読者に押しつけることはしない。当時の衣服の様子や、卑弥呼の顔立ちなど、諸説ある場合には、それらを公平に紹介し、コメントしてくれる。2千年近くも前のことであり、何事も断定するのは困難に違いないのだが、記述が偏狭に陥らないのは著者のお人柄に拠るところが大きいのだろう。そのため、読後感が誠にすがすがしい一書である。

卑弥呼は3世紀半ば頃の人で、その時の日本は「弥生時代」にあたる。弥生時代の遺跡から発掘された衣料品、食料品、食器、住居、武器、家畜、占骨などを見ると、魏志倭人伝は、当時の倭人の生活を思いのほか正しく伝えてくれていることがわかるという。たとえば、卑弥呼の宮殿について、以前は魏志倭人伝の著者が誇張して書いた、というのが半ば通説であったが、1980年代以降、佐賀県吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発掘されるに及んで(本書の著者佐原真氏はその中心人物のおひとりである)、倭人伝の内容が正しいことが裏付けられたそうである。

本書を読んで、衝撃的に意外だったことが、次の3点だった。

(1)日本列島には、当時牛も馬もいなかった
(2)人々の多くは裸足であった
(3)この時代に既に蚕を飼い、絹糸を産していた

遺跡からは骨が出てこない以上、家畜としての馬や牛はいなかったと言わざるを得ない。考古学的には(1)が正しいそうだ。すると、誰かが輸入した種が日本で繁殖したということになる。じゃ、木曽駒、対馬馬などの「日本馬」、そして「和牛」というのは一体何なのか?嘘だということになる。祖先を辿れば、牛や馬は人間が船に乗せて日本に連れてきたのだ。ちょっと信じ難いが、そういうことになる。

また、(2)に関しては、当時倭国には草鞋(わらじ)は無かったのだろうか。アメリカのオレゴン州で1万年前の「草鞋」が発見され、縄文人(アイヌの人々?)がアメリカに渡来した可能性がある、とBSの番組で紹介されていた。当時の倭国を旅した中国の役人が草鞋を見なかったとすると、西日本の倭人は裸足、東日本の倭人(アイヌ)は草鞋、という文化的な差があったのだろうか。「草鞋」は日本特有のものだとすると、その起源はいつ頃なのか?

本書を読むことによって、邪馬台国の当時の様子がいろいろと楽しく想像されると同時に、疑問や興味も尽きなくなった。我々は、魏志倭人伝の時代の倭国の姿をどこまで明らかにできるのであろうか?
本書は、一生を考古学に捧げた著者の遺作でもある。一読をお薦めしたい。
 
==或る書評
『魏志倭人伝の考古学』(佐原真著、岩波現代文庫)は、佐原真の最後の、そして、その死により中断された著作ですが、魏志倭人伝の研究を骨格とするエッセイの趣があります。

著者の関心は、邪馬台国がどこにあったのかという論争よりも、「考古学が明らかにしつつある事実と魏志倭人伝の風俗記事の記載とが、どううまく合うか、合わないかを確かめることに興味が集中しています」。「私は、ひとつの文献資料としての魏志倭人伝の主に衣食住を始めとする風俗記事と考古学的事実を比べていきます」。「結論からさきにいうと、考古学が新しい事実を明らかにしていくほど、魏志倭人伝の記載と合ってきています。考古学と話がよく合うことがますますふえています」。

邪馬台国の所在地論争には興味がないと言いながら、著者は畿内説に傾いていることを隠していません。これは、著者が関西人であることも影響しているのでしょうが、吉野ケ里の遺跡に邪馬台国の記載と合致するものが多いことを認めながらも、それでも畿内説に肩入れする姿勢は、九州説の私には、どうにも納得できません。「これまで卑弥呼の邸宅などについての記述は架空のものだといわれてきたものが、吉野ケ里以来現実味をもってきたのです」。「魏志倭人伝の記載が、架空ではなくて、それに対応する建物・施設が弥生の遺跡(=吉野ヶ里)で出てきたことが私にとっての最大の意味でした。発見当時、私はそう発言したのです。直ちにあれが邪馬台国だとか、あるいは魏志倭人伝の内容を立証したとかいったわけではありません」。

卑弥呼の顔について、面白いことが書かれています。「現在の人類学界では、弥生時代の初め以来、朝鮮半島から人びとが到来したことを否定する人はいません。邪馬台国が北部九州や畿内にあったとすれば、渡来系で背高く面長で由紀さおりさん、熊本・長崎・鹿児島ならば、縄紋系で薬師丸ひろ子さん、という松下孝幸さんの説明は、いま人類学研究者に共有のものでしょう。・・・だから、邪馬台国が北部九州・畿内のどちらにあったとしても、こと卑弥呼の風貌については、変らないことになります。ここで、失礼ながら卑弥呼さんの体にもう少し近づくことにします。卑弥呼さんは、渡来系弥生人ですから、面長で、顔全体は起伏少なく柳の葉のように眉細く薄く、目は一重まぶたで鼻筋とおり唇薄く、耳たぶ小さく、毛深くはなくそして、耳垢は乾き、脇の下に匂いはなかったでしょう」。

住居については、こう述べています。「弥生時代後半から古墳時代にかけて夜くつろぎ、性をいとなみ、ねむる、という私的生活は縦穴住居でおくっていたのでした。それならば、わが卑弥呼さんもまた、縦穴住居で寝起きしていたことになります。朝目ざめて朝食をとると、仕事着に着かえて公邸にお出ましです。あるいは朝食は公邸でとったのでしょうか」。

私は、卑弥呼が中国(魏)に生口(奴隷)を貢納したことに、以前から違和感を抱いてきました。「贈り物、授かり物」の箇所で、著者もこのことに言及しています。「倭は、107年に生口160人、239年に男生口4人、女生口6人、243年に生口を、その後も倭は魏に男女生口30人を贈っているのです。・・・中国の周りの国ぐに・地方・民族が、当時の中国の人の珍重するもの、皇帝をよろこばすものを贈っているなかにあって、倭国の生口の贈り物は、不思議にうつります」。

中国からの授かり物の鏡についても、興味深い記述があります。「清少納言さんは、わずかに曇りを生じた中国鏡に顔を映すときに心をときめかせ、『鏡は八寸五分』(直径25センチメートル)に限る、とも書いています。ずいぶん大きな鏡を好んだものです。清少納言さんよりも750年も前に、女王卑弥呼さんもまた、鏡は中国製の大きいのに限るワ、少し曇りが出てきたのに映すと心ときめくの、とつぶやいた、と想像したくなります。しかしこれは、全部中国製、全部日本製、一部中国製・一部日本製と学界で意見の分かれる三角縁神獣鏡(直径23センチメートル前後)を中国の魏の皇帝から卑弥呼さんが授かった、としての話です」。

弥生馬はいたのか否かという議論については、考察の末、こう結論を下しています。「魏志倭人伝にいう『牛馬なし』は正しかった、と私は思います」。

本書を読み終わり、これまで私の抱いてきた佐原は厳格な研究者という印象が一変しました。
 
 
==或る書評
 ありがちな「どこにあったか」の所在地論争から少し距離を置き、当時の邪馬台国(あるいは倭国)の生活や習俗がどのようなものだったか、という視点から『魏志倭人伝』の内容にアプローチした1冊である。著者自身は所在地論争では近畿説に近い立場を取っているようだが、九州説の根拠とされる情報についてもきちんと紹介している。
 話はかなりアカデミックで門外漢には分かりにくい部分もあり、現在では本書の見解と異なる結論が出ている内容もあると思われるが、単なる文章の解釈論ではなく、発掘調査の結果や科学的な知見を文献の記述と詳細に突き合わせての議論は重厚で奥深い。人骨の外耳道骨腫から分かる潜水漁の存在。寄生虫の卵が裏付ける野菜・魚介類の生食の習慣。骨占いの伝播経路…。そうした中には、中国や朝鮮半島、東南アジア、太平洋諸島などの文物や習慣と深く関係したものも多い。自身の主張も含めたこれまでの研究に不完全な部分やさらなる検証が必要な部分があることを率直に認めた上で、それらに対しては安易なこじつけや根拠のない憶測を持ち出さず、今後の解明を待つ姿勢を貫いているのも誠実な対応と言えるだろう。
 本来、歴史研究とはこういうものではないだろうか。そういう意味からも(邪馬台国論争に限らず)、地質学や生物相についての基礎的な知識も、民族学や考古学のフィールドワークの経験もない小説家や評論家が断片的な情報と思いつきの解釈論で叫ぶ「歴史への新たな視点」(「『魏志倭人伝』は中国側の一方的な記録だから信用できない」のような)には、やはり強い疑問を感じてしまうのである。