キリスト教が、何の根拠もなく、その本人が、単にその様に思っているだけだ、
という事は、
「イエス御自身の信仰」「創造信仰」と、
キリスト教を世界中に布教した「使徒パウロの信仰」「贖罪信仰」とが、
対立している事実から、明白である。
片方が正しいのならば、片方が正しくない、という関係になるのだから。
私は、1973年に田川建三のマルコ福音書の研究書で、イエスを知りたいとして、出発し、
10年後の1983年に洗礼を受けて、実際に教会の中から知ろうとした。
それから、20年間横浜市戸塚区の小さな伝道所(後に教会に発展)で、真面目に日曜礼拝を守って来た。
イエスを知りたいという動機は、イエスは、人間の心の問題だけではなく、社会批判をしている点にあり、何故なのか知りたいと考えていた。
その理由は、仏教の釈尊は、一切社会を変えようとなさらなかったからである。
「出家」と「在家」とは別の世界であった。
出家の世界では、カースト制を廃止して、絶対平等社会を実現していた。
更に、年齢の上下関係も廃して、出家の日付の順番だけにした。
他方、「在家」の世界の過酷な不平等、カースト制度を変えていく
ような社会活動を一切しなかった。
イエスは、当時の「エルサレム神殿一極支配体制」を、実力行使で、批判した。
(それまで、各地のあった部族の神殿を破壊して、1つの神殿に集中)
つまり、社会批判をしたのである。
宗教と社会を別のもの、別の世界と考えていないのである。
これが原因で、「ユダヤ教の裁判」で死刑の判決がだされ、
ローマ帝国によって、十字架刑で殺されていった。
私が洗礼を受け、20年間属していた教会が、
牧師が引退する時期に達すると、
急に「贖罪信仰」の方向に変わっていったのである。そして、
カルヴァンの改革長老派の「神奈川連合長老会」に加盟したのである。
そして、それまでの「教会役員」が「長老」と呼ばれるように変わったのである。
イエスの追っかけをして来て、潜在的な「創造信仰」の立場だったのに、
「入れ物の教会」の方が変わっていってしまったので、
逆に、自分の信仰を振り返って、明確になるように変わっていったのである。
その推進エンジンは「鎌倉雪の下教会」の「加藤常昭」牧師だった。
バリバリのカルヴァン派であった。
ルカによる福音書〈2〉
(加藤常昭説教全集)
2004/9/1 加藤常昭 (著)
1929年、ハルピンに生まれる。
結局は、
「神奈川連合長老会」の「合同信徒研修会」において、
私の質問に対して、
「海老名教会」の牧師の
「米国を知ろうとするのならば、米国に住まなければならない」という回答で、
その言葉を聞いた瞬間に「まったく、その通りだ」と思い、
20年間お世話になった教会を出る事を、その場で決心した。
これも運命である。
大分、遠かったが、
東京都中野区の「中野桃園教会」へ転会をお願いした。
高柳富夫牧師は「創造信仰」に立っていた。