日本語は哲学する言語である (日本語) 単行本 – 2018/7/21

小浜 逸郎 (著)

 

 

 

 

日本語は、曖昧で情緒的な言語とみられてきた。一方でデカルトに代表される西洋哲学は、言語をロゴスとして捉え、人間を理性的存在とみなして、情緒的なあり方をパッションに閉じ込めてきた。それゆえ人間の身体性やいまここに立ち現れている現実が歪められてきたのも事実である。本書は、日本語の「曖昧さや情緒」を文法構造に分け入って分析することで、これまで普遍的とされてきた思考とは異なる世界理解を切り拓く日本語による哲学の試みである。

 

==或る書評

一読、数学者岡潔の「情緒」と同じ意味を言語論で使っているので理解できる。
岡は、人が自我(小我)を脱し、真我(大我)=悟りに至れば、

大自然と情緒により相互交感が可能であるという事を言っている。


他方、西欧人つまり西欧的言語観は、言葉が論理的陳述の探求にばかりに偏っている。
それにより、自然科学を産み原水爆まで生み出した。
だが、その先の展望がない。

その証明として日本語は、世界をどのように捉えているかについて、西欧語では決して触れ得ない

「いるーある」問題・「ことーもの」問題・「ひとーもの」問題が取り上げられている。

その前段階として、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」がある。
最も、ラカンは「思う、ゆえにわれあり」と言った。
この、われとは自我(小我)のことであり、行き着く先は独我論となる。


これに対し大森荘蔵は、「立ち現れ一元論」を提唱した
デカルトの振り分けにより自然は死物化した。人と自然の交流はなくなってしまった。
大森は、知覚因果説でなく「重ね描き」を主張した
そして、立ち現れるのだから「心」は、不要となる。

自然のありさまそのものが有情となる

「心」とは、人と人との間ではたらく知覚では実証されない「作用」である。

つまり、

共通の「地」であり、その中の特殊な場面を「図」と云いその最終が「自我」となる
それは、言葉というものの避けられない特性に従わざるを得ないことによる。
モノでない物事も、モノであるかのようにお使わないと「はなし」が出来ないのである。


それは、一種の比喩的表現である。なので、

自然の有情性とは人間の言語表現により現れるのである。

和辻哲郎は、倫理の立ち上がる根源として西欧の神と個人の関係の在り方でなく、

それを「世間」に見い出した
我とは、相手と相俟って生まれたのである。最初から他者と関連している
そして、われわれは共同性の中で使われてきた言葉つまり、

日本語により世界を捉えてる

「情緒」つまり、色・音・匂い・肌触り・熱などの総体を西欧語は、

主観(心)のうちに封じ込め、

自然は単なる客体・客観として対象化する。

主客二元論である。
それは、視覚中心主義から来ている。だから非常に根深い。


「情緒」とは、主体の身体と周りの世界とが互いに開かれてある状態を、主体自身にとっての「問題」として実現させていること、そのことであると定義することが出来る。
つまり、民族(言語)により世界は、異なって捉えられているのだ。


長くなるのでこの辺で。大作である。

 

==或る書評

西洋の哲学がキリスト教のロゴス中心主義に偏ってきた事情がよくわかります。言語活動というものが情緒に基づくお互いの関係のやり取りであるという著者のとらえ方は、言われてみれば当たり前のことのようですが、これまでこのことをはっきりと打ち出した著作はなかったように思います。また、日本の文法学が相変わらず西洋の方法にのっとっているその無理を著者はするどく指摘しています。語りこそが真実であるというテーゼで押し切るのはやや説得力を欠く部分もありますが、こうした大胆な提言が今の言語思想にとっては必要なものであると思われます。