「生母」は、女学生の時に罹ったリュウマチの後遺症で、
心臓弁膜症になり、長い間、入退院を繰り返しながら、若い34歳で亡くなった。これは、医者の予告通りであった。
後妻の「養母」は、胃癌で亡くなった。
故郷である盛岡市で一人暮らしをしていたが、、一度も癌検診を受けていなかった。
アルツハイマー型認知症の重度になり、主治医から一人暮らしは無理と最終判断がおりた。
(大きな病院に行って、精密診断を受け、MRIのフィルムで明確だった)
それから、半年間掛けて、毎日母と会うことを約束し何とか説得して、
私の近くの「24時間介護の老人ホーム」に入居して貰った。
そこでも、癌検診をしなかった。
そして、しないまま入居1年目頃、休日の日曜日に、
急に体に異変が起こり、救急車で運ばれたが、どの救急病院もいっぱいで、
少し遠い、隣の市の救急病院で、ようやく受け入れて貰った。
原因は「胃癌の末期」であり、「胃の出口」が癌で完全に塞がれていた。
養母は、地方の高等女学校の頃に大病を患い体が弱くなり、医者からは子供を産むことができないと診断されて、その為、結婚せずにきていた。
そこに、「二人の子供を抱えて」困っている父のことを聞き、見合いして、
後妻として来て下さり、自分の子供のように育てて下さった。
女性医者はX線フィルムを見せながら
「胃癌は大きくて摘出手術しかない。しかし、体力がもたない可能性がある。」と説明した。
他方、
新しい老人ホームの暮らしにおいて、
母のアルツハイマー型認知症が「非常に速く」進んでいっていた。
それの原因は、・・・
それまでは、故郷で一人で住んでいたので、
「毎日、必死に」近くのCOOP生協から、食事(お弁当や惣菜)を「自分で選んで」購入て自宅で準備し、食後はせっせと洗って後始末していた。
アルツファイマー症の薬も忘れないように「必死に管理して」飲んでいた。
玄関や庭先の掃除も、ゴミ出しも、体を動かしながら、自分でしていた。
(お風呂は、火事まがいの事故を起こして、自宅の使用を止めて、デイサービスセンターに行って、介護のスタッフに体を洗って貰っていた。)
それが老人ホームでは、
食事は「自分で何もしないで」三食、自動的に出され、
薬も介護の人が出すまま「自分では何もしないで」飲むようになり、
「自分の頭を」全然使わなくなった。
完全に受け身の生活になってしまっていた。
必死で生きるという「緊張感・意志力・意欲」もなくなっていった。
すると、それと並行して、幻覚や妄想が酷くなり、徘徊もひどくなっていった。
この状態で、
たとえ、非常に痛い思いをして手術を受け、その後、抗癌剤の服用を続けても、生き残る期間も長くはなく、
更に、生き残っても重度のアルツハイマー型認知症はますます進行していくだけであった。
長男の私は、胃癌の摘出手術を、女性医師にお願いしなかった。
次男も同席していたが、異議はなかった。
残された方法は、食事の代わりの点滴で、これは養分の補給だけであった。
養母は、二十日ぐらいで、徐々に「衰弱して」亡くなった。
その間、毎日、出勤前と出勤後の2回寄って、長い話をした。
しばしば暗くなっていっても、部屋の明かりを点けないまま、話し込んだ。
アルツファイマー症だから、話してもすぐに忘れるのだが、
話している「その瞬間は」楽しいものだった。
胃癌は痛まないものなのか?不思議に痛みは全然訴えなかった。
それまで自覚症状がないから、癌検診を受けなかったのか?
または、点滴に麻酔薬でも混入していたのか?
養母は、自分が胃癌であることを知らないまま亡くなった。
それとも、父が胃癌であり、それを自分で看取ったので、知っていたのかも。
私の場合は、「自力で食事が摂れなくなったら」そのまま「衰弱死」したい。
点滴も不要である。
どこかアパートを借りて一人住み、最小限の訪問介護を受け、
体が動けなくなり、用便も「成人用の紙おむつに」お世話になり、
自分の意志で、自分から、食事を細くしていく。
(同時に睡眠薬を服用し続けるのも良いかも知れない)
他方、病院での「24時間看護」などは、拒否する。
その理由は、
医科大学付属病院で、父が胃癌で亡くなった時は、癌と戦い壮絶であった。
最初胃癌の発見で、胃を半分切除したが、転移部分を完全に切除できなかった。
一年後に再発し、最早手術ができなく、様々な新薬を投入していて、
体にいろいろな管が入れられ、スパゲッティ状態であった。
本人は肉体的に苦しんだ。
更に、「精神ははっきりしている」から、死を非常に恐怖した。
また、看護婦も「死ぬのが解っている」から、看護にぞんざいな人もいた。
点滴なので、何日も「自力で排泄できず」苦しんでいたが、
或る親切な看護婦さんに「肛門に手を入れて」ようやく取り出して貰ったりした。
それでも「新薬が投入され続けて」、本人の苦しみに関係なく、
「一分一秒でも」強制的に「生かされて」しまっていた。
死亡後に、担当男性医師から、
「医療行為の効果を知るために、解剖して実際の状態を確認したい」と要望を受けた。
後妻の養母は「これ以上、父を苦しめたくない」と解剖に反対したが、
長男の私は、この解剖に同意した。
癌の治療の向上に役立つのならば、次の人のいのちを助ける事に繋がる。
父もそれを許してくれるだろう、と考えた。
これは生前の父の生き方であった。
昭和天皇から、御名御璽の賞状と勲章を貰った。
一生涯、県庁職員で「公僕」だったから。
交付日付は「亡くなった当日」であった。
人間50歳を越えたら、いつでも「そこで」寿命である。
(癌は「遺伝子コピーの異常」だが、それは「自然の摂理」でもある)
いつ死んでもいい。
昔は、戦前より前の時代は、人生50年であった。それが普通であった。
学者の様な、研究業績を残し人類に貢献するすような人を除いて、
私の様な者は、次の世代に席を譲って、退場する方が、むしろ役に立つ。
養母に引導を渡したのであるが、自分にも「同じ引導を」渡したい。