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上記の写真は
『新版 私の従軍 中国戦線  村瀬守保写真集<一兵士が移した戦場の記録>』
からの、最重要な証拠写真である2枚である。
http://www.nextftp.com/tarari/Matsuo/murase.htm
http://www.nextftp.com/tarari/Matsuo/murasehanron.htm

南京陥落後、約2週間後、南京城の外、揚子江の川岸の<下関埠頭>での、虐殺現場写真である。
後ろ手に縛られたままで殺され油で焼かれた<大量の死体>であり、
河の土手に日本兵が立っており、冬の12月だが、死体が余りにも臭いので、マスクをしている。
村瀬氏は、重要なので、わざわざ同じ現場を少し角度を変え、死体を中心にして撮り直している。

この写真が、現在の新しい南京大虐殺記念館で、大々的に表示され、
スクリーンに映し出されている。

この写真に対しては、東中野修道・亜細亜大学法学部教授は、何もクレームを言っていない。
これは、東中野修道は「自分で本物の証拠写真であると認めている」からである。
そしてクレームを言っていないと言う事は、新しい南京大虐殺記念館から、
此の写真の撤去を求めていないということであり、更に重要なことは、
「撤去を求める、不当という理由・根拠が、東中野修道には、ない」と言うことである。

●「村瀬守保写真集」より
「十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、

十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。
 私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされていました。
 どこからともなく<城内で大虐殺が行われ>ている、という噂が流れてきました。
捕虜を南京の背後ある、<紫金山のふもと>へかりたて、<機関銃を>打ちまくって
<数千>いや、<数万人>も殺りくしたというのです。」
「(17)大虐殺のうわさが…
 ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、<下関埠頭>へ行きました。」
「(写真キャプション)<虐殺された>のち<薪を積んで、油をかけられて焼かれた>死体。
ほとんどが平服の民間人でした。」

●●●●(以下、本文)●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
南京大虐殺 <最初からデッチ上げで始まる>不当写真撤去運動4 
東中野修道の村瀬守保氏の撮影写真を隠す犯罪まがいの<写真研究を根拠>にする。 
<これによって扇動されるネット右翼>は、哀れな者たちである。

●東中野修道は、長い間、写真の真贋の研究をし、結果を以下の本で発表した。
東中野修道他2名著『南京事件-「証拠写真」を検証する』

そこでは
「初の総括的検証 証拠として通用する写真は1枚もなかった。」
と、結論付けており、
今回の写真撤去運動は、その研究結果を根拠として起こしている。

しかし、その<延べ3万枚近くから厳選した証拠写真143枚>には、
最初から、<最重要な南京大虐殺の証拠写真>を、隠し、外している。
(それが、冒頭の村瀬守保氏が撮影した写真・下関埠頭の2枚である)

この様な誤魔化しは、この本を信用している読者に対して<犯罪行為>である。
<歴史を改竄する>ためには、東中野修道・亜細亜大学法学部教授は
<手段を選ばない>。学者としての良心がない事を御自分で示している。

夏淑琴ニセモノ裁判でも、インチキ研究を暴露され、名誉毀損+人格権侵害の罪で、
最高裁で有罪判決が確定した。

東中野修道が自分で造り上げ、会長となった“日本「南京」学会”は、似非学会であり、
学会の姿を利用したプロパガンダ機関であった。
(まともな歴史学会では、東中野修道やお仲間の歴史研究は取り上げて貰えないので、
自分で学会をでっち上げた。副会長が黄文雄であり、類は友を呼ぶ、である。)

●勿論、この写真は、以下に大々的に掲載されている。

監修 朱成山
『南京大虐殺図録』(167ページの、分厚い写真集)
2005年6月 第一版発行

●歴史改竄主義者は、<歴史を改竄する>のが目的だから、
一次史料を平気で<改竄>や<捏造>や
更には<都合の悪いものは、なかった事にして隠蔽>する。

歴史研究は、史料を根拠に、歴史事実を追究して行くのであり、まともな歴史学会が
東中野修道の、所謂、歴史研究と称するものを、取り上げ掲載しないのは当然なことである。
東中野修道は、現在、まともな歴史学会の会員でないのは、歴史者としておかしな話である。

●村瀬守保写真集  一兵卒が写した戦場の記録
「私の従軍中国戦線」
日本機関紙出版センター 1987/12/20初版 ¥2000-
(なお、1982年に歴史教科書への文部省の不当検定問題が起こっています)
現在、増補版が出されています。是非、御覧下さい。

村瀬氏の第16節「南京制圧」の記述では…
「・・・穴倉のようになっている奥の部屋に踏み込むと、
薄暗い懐中電灯に照らされて、
下半身裸の婦人が、<下腹部を切り裂かれて>死んでいます。
少し奥には、5~6歳の子供がうつぶせで死んでいました。
プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。
翌朝、出発前に点検すると、奥の部屋に、もう二人、老人が殺されていました。
このような虐殺死体は随所に見られました。
婦人に暴行を加えて虐殺し、<女性の性器に棒を差し込んで>おくような、
残虐な事例も何回か目にしました。」

●つづく