大谷哲夫先生のように、頑迷に、道元和尚を、
瑩山禅師の教えに合うように、無理に解釈して下さる方が存在するので、
道元の『宝慶記』が、捨て去られないで、今日まで伝わった、その偶然!
もしも、内容が理解されたならば、「意志をもって、捨てられて」いた。
道元は、臨済宗の明全禅師の下で修業し、既に印可を貰っている。
だから、道元の見解に、無意味なもの、利用価値のないものは、記録に残っていない。
何が正しいのかが解っていなく、如浄禅師の教えを全てを、記録に残したのではない。
だから、如浄禅師の教えの間違っているものは、記録として残っていない。
道元が、聞きたい内容に限定して、記録されている。
だから、
如浄禅師が「儒教道教仏教、三教一致」を『語録』で、説いていても不思議はない。
実際、
「当時の儒教」は、「朱子学」で変質し「陰陽五行説」の哲学であり、
「中国禅」も「老荘思想」そのものであるので、
南宋時代での実態・内実は、完全に「三教一致」だった。
道元は、如浄禅師に、これを質問しなかったか、
如浄禅師の回答が、誤りなので、無意味だから、記録に残さなかったのだろう。
〇 〇 〇
道元は「身心脱落」「帰家穏坐の否定」、
如浄は(心の「実体」視)「心塵脱落」「帰家穏坐」!
1358ー90=1268年に、「義尹」が、
無外義遠に抜粋校訂してもらった、(後の)『永平元語録』1巻を、
日本に持ち帰る。
如浄は1227年7月17日、死亡だから、37回忌法要は、1264年に当たる。
義尹は、『永平広録』10巻を持参した。
義尹は、この時点で、「道元教団の代表者」である。
1358年に、永平寺六世「曇希」に開版され、1750年まで、400年間近く唯一の語録であった。
如浄禅師の教えは、「坐禅は、心塵脱落」であり、
「心の<塵を脱落し>、本来の清浄心となれ!五欲を除き、五害を除け!」だった。
しかし、それを聞いて、
道元は、「自分の理解した原始仏教の教え」『阿含経』の、
「身や心の<実体>視から、脱落せよ!」を、聞き取った。
だから、同様に、
如浄禅師の教えNo38に対して、
「坐禅、直ジキニ、及スナワチ、帰家・穏坐」
これを否定して、弟子に教えなかった。
「瑩山」禅師は、これを『坐禅用心記』に取り入れている。
つまり、道元とは、逆の禅「天台密教の禅」であるからである。