動画じゃない方が見やすい人もいると思い、
李承晩TVの日本語字幕を転載します。
動画には日本語字幕が着いているので、動画が良い方はそちらをご覧ください。
『反日種族主義』李承晩TVの李栄薫先生が出した本が今、韓国でベストセラーになっているということです。
文在寅の行き過ぎた過去史への執着と親日清算に対する反発から、
この本が話題となり「反日は迷信だ」と知る人々が増えています。
この方々の活動が急速に韓国人の中に広がっているようです。
馬鹿げた反日を手放すことが、韓国・朝鮮が自らの歴史を歩みだすための第一歩だと思っています。
<反日種族主義を打破しようシリーズ> 第8回目
2019.6.18 이승만TV
<画像>自由大韓民国 建国の指導者 李承晩 1875.3.26~1965.7.19 「建国精神の学び場」
金洛年 東國大学 経済学科教授
李承晩TV視聴者のみなさん、こんにちは。
東國大学 経済学科金洛年教授です。
「危機韓国の根源・反日民族主義」の時間です。今日の講義は日本植民地時代の食糧収奪説に関する話です。
日帝の植民地支配に対しての批判の中で、一番多く耳にする話の一つが、日帝が朝鮮を食糧供給基地にし、朝鮮の米を収奪していったということです。高校の韓国史の教科書でも、教科書によって差がありますが、日本が米を「収奪」していったと表現したり、ただ「もって行った」または「搬出」したと表現しています。「もって行った」や「搬出」したという表現は「収奪」に比べると強制性を排除したように見えますが、その代価を支払ったのかどうかを意図的に隠している点で、大きな差がないと考えます。
そして米を大量に「収奪」または「搬出」した結果、朝鮮人の米消費量は大きく減少し、雑穀で延命しなければならなかったと言います。そうなると朝鮮人は米を増産してもその恵沢を受けられず、生活水準は当然下落するしかなかったということになります。
このような教科書の叙述、またその影響を受け形成された韓国人の通念は果たして事実に立脚した者でしょうか?朝鮮の米を日帝が「収奪」したのでしょうか?でなければ朝鮮が日本に米を「輸出」したのでしょうか?
もし「輸出」したのなら、それによって朝鮮人の暮らしが悪くなったという論理は成立しません。それでは解放前の朝鮮の小作農民たちの貧しい生活はどのように説明できるのでしょうか?ここでは以上の点を一つ一つ検討していこうと思います。
米を「収奪」したのと「輸出」したのとでは天と地ほどの差があります。「収奪」は強制的に奪って行ったのであり、「輸出」は代価を払って購入していった、ということです。当時の表現では日本に「移出」したことになりますが、それは「輸出」と同じ意味です。当時朝鮮と日本の間の取引は、外国との取引である「輸出入」と区別して、
「移出入」と呼んだだけのこと、すべて朝鮮との貿易の中に含まれます。
総督府は「朝鮮貿易年表」という統計書を毎年発行しましたが、それを見ると朝鮮の米をはじめとした各品目が、どの港を通して、どの国にどれほど輸出あるいは輸入されたのか、その数量と共に金額統計が出ます。
この金額とは、取引が為された金額を意味します。この統計は年間単位で集計した実績を示していますが、米の輸出動向や米の作況などは発表されるたびごとに新聞で扱っています。特に米価の動向は農民は勿論のこと、穀物商や米を消費する都市の人々の主な関心事だったため、日本を含む全国各地の米の相場が株相場と共にほぼ毎日報道されていました。
当時の資料や新聞を少しでも読んだことのある人ならば、米は通常の取引を通して日本に輸出されたことがすぐに理解できます。教科書の叙述が想定しているように、もし誰かが、汗水流して生産した米を強制的に奪って行ったとするなら、バカでない限り黙って我慢する農民もいないだろうし、それはすぐさま新聞に報道されるニュースの種になったと思います。
当時の米の生産量と輸出量の推移を<図1>を見ながら説明します。
図1 コメの生産量、輸出量、朝鮮内消費量 単位:1000石
<青実線 生産量、紫破線 国内消費量、ピンク点線 輸出量>
米の生産量は当初1000万石程度の水準から、起伏がありますが2000万石を超える二倍の水準に上がりました。産米増殖計画を推進し、水利施設を整備し、肥料の投入を増やした結果です。
ところで米の輸出量は、当初微々たる水準から出発し、1000万石近く拡大され、多い時は生産量の半分が輸出されています。この時期、朝鮮の米は一番重要な輸出品であり、朝鮮の農業は輸出産業になったと言えるでしょう。生産量から輸出量を引き、輸入量を足して求めた国内消費量は停滞していましたが、その間人口が増えたため、一人当たりの米消費量が減少しているのがわかります。
朝鮮の米がたくさん輸出されると二つの地域の米市場は一つに結ばれます。自然と朝鮮と日本の米の値段は近接し、また緊密に連動するしかありません。当初朝鮮米は、例えば石がたくさん混じっているなど、品質の問題のため、日本の米より安く取引されました。しかし、米の乾燥状態や加工方式が改善され、日本の米価にほとんど近づきます。
朝鮮の農民の立場からしてみると、日本という大規模な米輸出市場ができたため、有利な立場にあったと言えるでしょう。その反面、日本の農民の立場からすると、朝鮮米が大量に流入し、日本内の米価が下落圧力を受けたため、不満を持つようになります。朝鮮で産米増殖計画を推進したのは日本の米不足を解消するためでしたが、米不足が続いたとしたら問題はありませんでしたが、そうでない状況になると朝鮮と日本の農民の利害関係に衝突が生じます。
例えば1931年には二つの地域の米農作が共に豊作であり、米価が急落しました。このような状況でどのような葛藤が生じたかを、当時の東亜日報の記事がよく示しています。当時の雰囲気を生き生きと伝えるために、少し長めですがこれを引用してみます。
「朝鮮の立場としてはその方法の如何を問わず、移入を制限し雀の涙ほどでも朝鮮米の日本流出を妨害することは絶対に受け入れることはできない。今日において日本の米価を圧迫した最大の原因が朝鮮米の日本流入にあるという事情は朝鮮の農民も知らないわけではない。
しかし、それは朝鮮が自ら行ったことではなく、日本が日本の食糧問題を解決するために、朝鮮内に必要以上に膨大な産米増殖計画を実施したためである。
従って、今になって朝鮮米の移入を止め、産米増殖計画の結果として惹起された損害をみな朝鮮農民にだけ転嫁するのは理由にならないということを、日本の農民も知らなければならない。
とにかく、朝鮮農民の立場としては法律の制定による移入制限はもちろんのこと、朝鮮米流入の自由を束縛する、いかなる措置にも絶対反対するしかない。」
1931年6月16日東亜日報「朝鮮米移入制限に絶対反対」の文章を現代語に直した、以上が記事からの引用文です。
この記事から読み取れることは、朝鮮米の日本流入が日本の米価を圧迫してきたという点、そして日本の農民が朝鮮米の日本流入を制限しようとする動きを見せ、それに対して東亜日報は朝鮮農民の立場で断固として反対している、という点です。もし朝鮮米の日本輸出が制限されると、販売先を失った朝鮮米の価格は大きく下がるでしょうから、朝鮮の農民が莫大な損害を受けることがはっきりしていたからです。
これを反対に見ると、日本という米の大規模な輸出市場がすぐ横にあったため、朝鮮の米の生産が大きく増えても米価格は不利を受けず、それが朝鮮の農民の所得増加に大きく寄与したことがわかります。このことは当時を生きた朝鮮の農民や報道関係者にはあまりにもよく知られていた常識です。
これに対し日帝が朝鮮の米を日本が「収奪」したとか、「もって行った」と批判する教科書の論理通りだとすれば、朝鮮米の日本移入を制限しようとする措置を、朝鮮人であるなら大歓迎するのが理に適っています。米をこれ以上もっていかないのですから。
しかし、現実はこれとは正反対だったのです。
このような矛盾に陥ったのは、当時の資料に一度でも目を通していればすぐにわかるはずの、米を「輸出」したのではなく「収奪」されたのだ、と言い張っていたためです。
米を奪って行ったのではなく、自発的に取引をしたのだとすると、朝鮮人の米消費がどうして減ったのかは、他の論理で説明する必要があります。最近は所得が増えても一人当たりの米消費量が減っていますが、当時は毎食米のご飯を食べることが富の象徴でした。普通の農民は大部分を、粟を初めとする雑穀で満たしていました。農民たちが米を生産しても米を満足に食べることが難しかったのは、米を大量に輸出したために米が足りなくなり、価格が上がったためです。
特に小作農家の場合は生産した米から、小作料とそれ以外の必要経費を支出し賄うと食べる食糧が不足します。そのため、高い米を売って安い雑穀を消費するしかなかったのです。だからといって米を輸出したことが生活水準の下落をもたらしたわけではありません。
例を一つ挙げてみます。
この頃松茸は少なく、高価なので普通の人々は食べることがなかなか難しいです。松茸が少ないことの理由の一つが、日本への大量輸出です。日本の人々の松茸好きは特別で、日本でも価格がかなりなものです。韓国の松茸採取農家が生産量を増やしたからといっても、更に多くの量を輸出すれば、松茸の韓国内の消費は減ります。だからといって韓国の生活水準が落ちたとは言いません。松茸を売った代金で他の物を買ったり、貯蓄を増やしたりできるからです。松茸は米に比べてはるかに貴重で高いものですが、話の論理上で何の差もありません。
万一米が「収奪」でなく「輸出」したのであり、それが農民の所得増加にむしろ寄与したというなら、この時期の農民、特に小作農家はなぜ貧しかったのでしょうか?
まず、当時の農業生産性の水準自体が低かったためです。土地面積当たりの米の生産量を比較してみると、
当時朝鮮は日本の2分の1程度に過ぎません。現在の水準と比較すれば更に低いです。当時は人口の半分が農業に従事し、米を生産していましたがそのようにして収穫した米の量が、現在はその10分の1に過ぎない従事者で収穫する量に達することができませんでした。
農業の生産性が低いということは、結局一人当たりの所得がそれだけ低いことを意味します。
<図2 小作地率・小作農比率の推移(単位%)
紫破線 他の小作地率 ピンク点線 畑の小作地率 実線 小作農 比率
二つ目は土地の所有があまりにも集中しており、小作農の地位が特に劣悪でした。<図2>を見ると、田んぼの小作率が65~68%と高いです。つまり、3分の2が小作農によって耕作されていたのです。畑の場合はそれよりも比率が低いですが、この時期耕地の大部分が小作農によって耕作されていたことがわかります。1930年代には自分の土地をまったく持っていない純小作農が半分以上でした。
そしてこれらの小作農家は、生産量の半分以上を小作料として地主に納付しなければなりませんでした。この時期農村の人口は増え続けていたため、耕地をめぐる小作人同士の競争はたいへん酷いものにならざるを得ず、しかも地主制度は強固に維持されました。このような状況は、日帝時代には更に悪化することはしましたが、基本的には朝鮮時代後期から持続してきたものであることがわかります。
全体農家のうち、地主の比重は3.6%に過ぎません。ところが彼らは小作料の収入を通して全体の米生産量の37%を取得していました。自家消費を除き、商品化した米を基準にすると、地主の持前は50%以上に増えます。先に、米が輸出商品になり朝鮮の農民たちが有利になったことについて言及しましたが、その恵沢は米販売量が多い地主や自作農に集中し、小作農家に帰ったものは微々たるものに過ぎませんでした。
話をまとめてみたいと思います。当時朝鮮の農民、特に小作農が貧しさから抜け出せなかったのは、結局農業生産性が低く、土地に比べて人口があふれ、小作農に不利な地主制が強固に存続していたという伝統社会以来の落し穴から抜け出せずにいたためです。
産米増殖計画が米の増産をある程度実現してくれたけれども、このような従来の殻を破るほどの影響を与えることができませんでした。地主制度のは解放後になされた農地改革を通して解消されました。そして農村の低い生産性と過剰人口の問題は、高度成長期を経ながら移農が急速に進行し、農村の人手不足で機械化などが為されたことによってやっと解決されました。
それなのに韓国史教科書の叙述は、日帝時期の朝鮮農民の窮乏の理由を日帝が米を収奪したためだと言い張っています。その影響で形成された一般人の通念も、これと大きく違っていません。米を「収奪」されたのではなく、「輸出」していたにも拘わらず、です。
生産と輸出が大幅に増し、価格も不利にならないのなら所得が上がるのが経済の常識ですが、これをひっくり返して無理なことを言い張っているのです。教科書が「収奪」とか「搬出」などの表現を放棄できないのは、「輸出」という表現に変えた途端、自身の日帝批判の論理が混乱に陥ることをよく知っているためだと思います。彼らは嘘を創り出してでも日帝を批判することが、正しい歴史教育だと錯覚しているのです。
このようなでたらめな論理で為されている教科書の日帝批判に対し、果たして世界の人々の共感が得られるのでしょうか?
今日の講義はここまでです。