動画じゃない方が見やすい人もいると思い、

李承晩TVの日本語字幕を転載します。

動画には日本語字幕が着いているので、

動画の良い方はそちらをご覧ください。


<反日種族主義を打破しようシリーズ> 第6回目

2019.6.4 이승만TV

 

 

 

<画像>自由大韓民国 建国の指導者 李承晩 1875.3.26~1965.7.19

 「建国精神の学び場」

李宇衍 落成大経済研究所研究委員

 

李宇衍です。

今日は2度目の講義として 果たして”強制労働”だったのか という点でお話しします。

 

日本に渡った朝鮮人は”強制”で”奴隷”のように働いた、これが

学界の一般的意見であり国民的な常識です。

”強制連行”を初めて主張した朴慶植は

「多くは一日に20時間」働いたが、賃金は「現金で払われず、みな貯金」され

「送金は到底考えられず、自分一人が生きていくのも大変な水準だった」と主張しました。

また賃金自体が「日本人の半分程度」に過ぎなかったといいました。

 

彼によると朝鮮人は炭鉱の坑内労働のような「一番過酷な労働」に疲れ果て、

殴る蹴る、集団的リンチや監禁が日常的だったと言いました。

 

結局「強制労働」、「奴隷労働」だったというのが核心的主張でした。

今日までも大部分の研究者たちが、全く同じ主張を繰り返しています。

<日帝強占下 強制動員 被害真相究明員会>委員長を務めた全キホ教授は、

「日本人が忌避する辛く危険で汚い仕事」を

朝鮮人がするように強制的に配置し、賃金から少額の小遣いを抜き、残りをみな強制的に貯金させるようにした」と書いています。

 

また「民族的賃金差別」が明らかだと主張しました。

 

それと同様に「鞭と暴力」、そして「監禁」を通し、「自由と自立が全くなく」

朝鮮人を「監獄のように」「奴隷のように」待遇したといいました。

大部分の反日種族主義の立場に基づいて行われた韓国の研究、

そしていわゆる日本の「良心的知識人」や社会団体の人々が主張したこのようなことは、

歴史的事実とは全く異なっている、ということが今日お話ししようとする内容です。

 

誇張を越えた歴史歪曲、強い言葉でいえば「捏造」だったといえます。

賃金は基本的に正常に支払われ、強制貯金は確かにありましたが、

それは日本人についても同じでした。

そして2年の契約期間が終わると、みな規定通りに利子と共に引き出し、

朝鮮にいる家族に正しく、事故もなく送金することができました。

 

賃金は基本的に成果給でした。それは日本人も同じでした。

従って、日本人より賃金が高い場合もしばしばありました。

また、日本人より賃金が低い場合は、多くの場合朝鮮人が炭鉱での作業経験がないため

生産量が少なかったことが原因です。

 

また、業務中に殴るといった、前近代的な労務関係がなかったわけではありませんでした。

しかし、それは日本人に対しても同じでした。

 

生活はとても自由でした。

夜通し花札をしたり、仕事が終わると市内に出かけて飲み過ぎて、次の日出勤できない、ということも多くありました。

ある人は朝鮮女性のいる、いわゆる「特別慰安所」というところで日給を使い果たすほど、

彼らは自由でした。

 

今、お見せしているこの写真を通し、誠信女子大徐慶徳教授はニューヨークのタイムズスクエアで映画「軍艦島」を宣伝しました。腹ばいになり炭を掘る朝鮮人の姿だと広告したのです。

 

 

反日種族主義に傾倒した「作業上または作業配置上の民族的差別」を主張する研究者たちの視点がよく表れている写真です。そして次のこの写真が、上の写真の原本です。この写真もまた国立日帝強制動員歴史館に展示されました。

 

 

しかしこの写真も戦争のとき日本に行った朝鮮人の写真ではありません。この写真は実際には日本の写真作家斎藤こういち氏が1950年代中ごろに貧しい日本の庶民の生き様を映し出す、という目的で、筑豊炭田地帯のある廃坑、つまり作業をしなくなった炭鉱で石炭を盗掘している場面を撮影したものです。斎藤氏はそのフィルムを今も所蔵しています。

 

韓国の研究機関、国家機関と徐慶徳氏が日本人の肖像権や斎藤氏の著作権を無視した結果となりました。

また、アメリカまで行って日本人を韓国人だと無理を言いはり、我々がこのようにやられてきたんだとでたらめな写真で扇動するはめになってしまいました。国際的な恥だというしかありません。

 

韓国の反日種族主義をアメリカ人たちがどのように考えるのか、本当に恥ずかしい話です。

 

斎藤氏は昨年国立歴史館を訪問して抗議し、展示を中断するよう要求しましたが、歴史館側では、基本的に強制動員の実像を映している点では同じなので、続けて展示するつもりだと回答されたそうです。

 

 

 

この写真に写っている採炭方式は、19世紀後半に日本の炭鉱で行われた炭を掘る方式でした。

しかし日本の鉱業は20世紀に入ってから急速に発展しました。

 

この写真は鍬ではなく coal pick、つまり空気圧縮式削岩機を使用し採炭する姿ですが、これは1934年の写真です。1930年頃から日本の炭鉱の大部分の坑道はこの写真のような姿でした。なぜここで腹ばいになって石炭や功績を掘る必要があるでしょうか?これは何の根拠もない宣伝、扇動であり、歴史歪曲だとしかいいようがありません。

 

結局、朝鮮人たちを意図的に辛く危険な作業に配置した、という主張であって、例えば炭鉱で、坑外よりは坑内、坑内でも一番難儀で危険な仕事、つまり炭を掘る採炭夫、坑を掘り進める掘進夫、坑道が崩れないよう木材などで構造物を作る支柱夫、このような仕事に朝鮮人を配置した、といいます。

 

しかしこのような作業現場での実態は、民族差別論は事実と全く異なっています。

 

まず多くの人々が証言するのは、日本人は同じところで一緒に仕事をした、ということです。

朝鮮人と日本人がそれぞれ4名と3名、3名と2名、このような方式で作業組を組んで一緒に仕事をしたのです。

つまり日本人と朝鮮人が一緒に作業をするのに、どうして朝鮮人だけが難儀で危険な仕事ができますか?

 

炭鉱の勤労実態について、まったくわかっていない人が言える、でたらめな話に過ぎません。鉱業技術の歴史を見ても作業配置に於いての民族差別という主張は全く根拠がありません。

 

1930年頃から日本の炭鉱では2つの大きな技術革新がありました。

 

まず第一は長壁式採炭という新しい技術でした。過去には少数、つまり2~3名が一組になり、炭脈にそって何組かが目まぐるしく掘っていく方式でした。従って当然、多くの石炭がそれほど採掘されないまま残るものでした。ところがこの長壁式採掘法では、先ほどご覧になったもののような、大きな坑道を炭脈に沿って長く掘ります。その長さがなんと200メートル以上になる場合もありました。このとき、朝鮮人と日本人5~6名が一つの組になって、各組が5~6メーターほどの間隔で並んで一斉に作業をするのが長壁式採炭法です。この方法によって以前よりずっと効率的に、炭脈全体の石炭を無駄なく掘り出せるようになりました。

 

2番目の技術革新は機械化でした。1929年世界大恐慌以降、日本の鉱業にも人件費を削減するため、機械化が急速に推進されました。先ほど削岩機を使用する写真をお見せしましたが、こちらは1934年に導入されたcoal cutter、すなわち石炭裁断機が使用されている姿です。

 

 

朝鮮人たちが配置された大規模な炭鉱では、このように機械化が大きく進展していました。石炭を運ぶコンベアーも広く使われていました。

 

長壁式採掘法についてお話ししましたが、もし朝鮮人だけで作業組を組んだとしましょう。このときもし朝鮮人作業組が高い熟練度を要求されるとか、または危険な切羽に出会ったとすれば、その切羽だけが他の部分と違って突出してしまいます。そうなると全体が一つの大きなコンベアを使っているのに、朝鮮人が担当する行動だけが飛び出し、一文字に置かれたコンベアを同時に短脈に沿って移すことができなくなります。従ってひとつの朝鮮人の組のために全体の採炭作業に大きな損失が生ずることになります。

 

このような理由から必ず朝鮮人と日本人を一つの組にして、作業組を編成しなければなりませんでした。機械化そのものが朝鮮人だけの作業組編成や朝鮮人だけでの作業を不可能にしたのです。それまで農業しか知らない朝鮮人たちが機械式ドリル、圧縮式削岩機、小型ショベル、コンベアなどを操縦しようとするならば、長い期間の訓練と機会に対する知識が必要でした。しかし契約期間2年が過ぎると大部分の朝鮮人は故郷に戻ってしまいます。

 

また、機械化によって火薬、ダイナマイトの効率もぐっと高くなりました。ノミと金槌の代わりに機械式ドリルで穴をあけるようになりました。それで以前よりずっと深く穴を空けて、深く爆薬を設置することで、一挙に大量の石炭を粉砕できるようになりました。これをブラスト式採炭といいますが、このような技術が急速に拡がりました。これによって熟練した坑夫の必要性が更に大きくなりました。

 

なぜかというと、爆発が広範囲で利用され、坑道が崩壊したり、天井が崩れる落盤など、坑道での事故発生の危険性も同時に高まり、多くの鉱夫が死亡したり、大けがをしたりする大規模な炭鉱事故が起こり得るからです。

 

これを防ぐには熟練した日本人を経験のない朝鮮人と組にして、一緒に作業させるしかありませんでした。

 

そのようなことから「労働環境における民族差別」という主張は、多くの経験者の証言に反したものだと言えます。

石炭鉱業に対する無知、また当時の技術に対する無知、そして反日主義的先入観に基づくこのような主張は事実とあっていないばかりか、論理的にも合っていません。

 

結局「勤労環境に於ける民族差別」という主張は想像の産物であり、歴史歪曲に過ぎません。

 

反日民族主義に陥った労務動員関係研究者たちが主張する「作業場または作業配置上の民族差別」について、彼らの提示する根拠は、産業災害率、つまり作業中の死亡率と負傷率について朝鮮人側が日本人より断然高いという点です。これははっきりした事実です。1939年1月から1945年12月までサハリンを含む日本本土の炭鉱で死亡した鉱夫は10330人でした。1943年、日本の主要炭鉱全体の朝鮮人の死亡率を見ると、朝鮮人が日本人より2倍ほど高くなっています。同じ時期の炭鉱鉱夫中、朝鮮人は11万3千余名でした。日本人は22万3千余名でした。

 

軍人として調整された日本人は、みな青年、壮年層でした。このことは炭鉱においても同様でした。炭鉱へと徴兵された日本人は、坑外よりは坑内部、坑内部でも比較的強い腕力を持ち、また危険度も高い作業に従事していた採炭夫、掘進夫、支柱夫出身者がはるかに多かったです。炭鉱でこの空席を埋めたのが、まさに朝鮮から渡ってきた青年たちでした。日本の本社から朝鮮に派遣された職員は、当然腕力があり危険な仕事もこなせる健丈な青年たちを募集したためです。その結果、炭鉱での配置、つまり職種分布は朝鮮人と日本人の間に大きな差ができました。

職種(坑内部)     日本人(%)    朝鮮人(%)

 採炭部     18.7     48.8

支柱部      12.6     8.0

掘進部       6.8     11.5

計         38.1    68.3

 

1943年日本人は60%が坑内部だったのに対し、朝鮮人はなんと92%以上が坑内部でした。また、坑内部の中でも採炭部、掘進部、支柱部の三つの職種が占める比率は、日本人の場合約38%に過ぎませんでしたが、朝鮮人は70%以上でした。つまりこれら3つの作業に従事した朝鮮人の比率は、日本人より1.9倍も高かったのです。そのため、一番危険な作業を受け持った朝鮮人の比率は日本人の2倍も高く、その結果として朝鮮人の死亡率が日本人の2倍近くにまでなりました。

 

今までお話しした状況を考慮すると、朝鮮人の災害率や死亡率が日本人より高かったのは、朝鮮人たちが遂行する作業と朝鮮労働者の肉体的特徴のため、避けられなかったことだったのです。

 

戦争以前にも日本の大規模な炭鉱会社では朝鮮から鉱夫を募集し、採用していました。この時も朝鮮人の坑内部比率と、また坑内部の中の3つの重要作業を担当した鉱夫の比率は、先の1939年から1945年という戦争期間と同様に、日本人よりも高かったのです。

 

これはもちろん、若く健丈な朝鮮の若者たちがお金を儲けるために日本に行ったからです。1941年、北海道の6つの主な炭鉱の場合も同じことが言えます。朝鮮人は郊外部より、坑内部が1.4倍多いです。6つの炭鉱の朝鮮人の死亡率と、日本人の死亡率を計算してみると、朝鮮人が日本人より最低1.3倍から最大3.0倍高くなっています。

 

6つの炭鉱について、左から坑内部/郊外部の割合

また、死亡、重症、合計 それぞれ日本人を1とした場合の朝鮮人の割合

 

ところで、AとFの炭鉱では朝鮮人の死亡率が日本人より1.4倍くらい高いです。死亡率と重症率の合計でも似たような傾向が見られます。坑内部労働者の比率が高ければ高いほど、またその中でも3つの重要作業重視者が占める比重が高いほど、死亡や負傷のような災害発生率が高くなりました。

 

朝鮮人の災害率が高いのは、人為的な「民族差別」ではなく、炭鉱の労働力需要と朝鮮の労働供給から生まれた自然な結果だと言えます。

 

もし朝鮮人の災害率が高いことに対して、日本人の責任を問うならば、それは粗悪に朝鮮人を危ないところに故意に追い込んだと主張するのではなく、なぜ戦争を起こしたのかという、このことに対して責任を問わなければなりません。

 

更には一世代前、朝鮮を殖民地にした、その先祖の行動について責任を問うべきでしょう。

戦時期「作業配置上の民族差別」問題は人為的なものではなく、労働需要と労働供給から生じた自然な結果であることをもう一度強調したいと思います。

 

今日は客観的実体、実在的な歴史的事実と、それに対する合理的な説明を通し、

いわゆる「作業配置上の民族差別」という主張がもつ虚構性、もう一つの歴史歪曲を明らかにするという本来の目的に合わせて講義しました。

 

ありがとうございました。

 

以上