自国民が有意義に活用できる事を、国家が保護してくれて称えてくれる、自由の概念としなければならない。

 

自由は、尊厳性を帯びた生きものであるのです。

 

つまり、自由貢献度の概念と一致しなければならない。

そうせんと、何の為に自由を保護しているのか、分からないようになります。

 

よその人が入国しても、責任構造が発生しませんから、当事国の人と同等に、自由さの権利構造は、発生しないのであります。

 

国籍条項において、自由ではない事になります。

保護する規定概念が、違っているのです。

 

しかしながら、よその人でも、責任ある暮らしぶりなら、妨げるものではなかろう。

 

自由観念像の保護規定を、乱すものでなければ、自由に暮らしてもかまわないとなるのでしょう。ある程度日本社会に馴染んでもらうことになります。

 

よそに行けば、安易に自由を獲得できるとはならないのです。

自国に責任構造がわかないのであれば、その分自由の概念、存在仕様がない。

ここに、責任を持って暮らしてくださいとの条件が、入るでありましょう。

 

あとに来る責任構造が、よその国の人には存在しないから、自由三昧とはならないのです。

 

当事国の次元像である、尊重心の概念を活かしきれなくて、何の自由三昧ぞと、なります。むやみに活用すれば、当事国を否定する事になってきます。

 

要するに、当事国の自由の概念を、責任構造も湧かないのに、我にも自由を寄越せと言えないのであります。

 

いわゆる自国民は、社会造りの一貫性として、自由の概念を有意義に生かしているのであり、当事国の責任構造が仕組まれているからです。

国家像次元像の概念であります。

 

この事に、よそ者次元像の解釈は、よそに行けば、安易に自由を確保でき、許されていると、思い込むのではなかろうか?

 

何でもかんでも、自由であると暗示意識が、結果を呼び寄せているのではなかろうか、と思えるのであります。

 

つまり、責任構造を描けない輩は、入国したら駄目と言う事になります。

 

当事国に貢献度を成らしめてこそ、確保できる自由の概念であります。

貢献度も何も成らしめることなく、自由を寄越せとする次元像は存在しません。

 

それだけに、悪さ仕込みの自由まで、拵えてくれたものではないでしょう。

 

先人たちが、自由の概念を、確立してくれたというのは、貴重な財産として受け継がねばならない。

 

それを、武力か、権力を持っているのか知らないが、民衆の精神像を踏み躙るが如く、自由を剥奪する権限は誰にもありません。

国家像の概念、否定にまでなってくる。

 

先人たちの絶えある功績を、残してくれたことに感謝しなければならない。自由の女神の微笑みこそが、生きる国造りであります。