今年父が百歳になった。早々と去年の敬老の日に、総理大臣から賞状と銀杯が届いた。その年度に百歳を迎える人に、敬老の日にまとめて送るのだろう。他人事ながら、敬老の日より誕生日が後の人が、賞状は来たが誕生日前に亡くなってしまったらどうするのだろうと気になった。私の父など三月が誕生日なのだ。

幸い今も元気だし、誕生日には市長がお祝いに来た。父は近く(といっても車で一時間足らず)の老人向け施設にいるから、そちらに行ってくれるのでなければ来てもらう必要はないといったのだが、来てしまった。何度か顔を合わせたことはあるが、「こいつどこかであったことあるな」ぐらいの認識だろうから、特に話すこともない。お祝いをおいて、お茶を一杯飲んで帰って行った。

父の誕生日の祝いは、四月か五月、施設近くのホテルかうなぎ屋かそんなあたりに息子(私)、娘(私の妹)の家族が集まるのが定番だが、庭いじりが好きだった父のことだから緑の中がいいと妹が言い出して、今年は別所沼公園の野外ジンギスカンにした。百歳の年寄にジンギスカンはいかがなものかという気もしたのだが、やはり緑の中は気分が良かったのか、デザートにしようというときになってもまだ食べ続けようと箸を出していた。食欲に歯止めがない感じなのだ。長生きする人は良く食べるというのは、当たっているらしい。

問題は、百歳になっても当人は嬉しくも何ともないということなのだ。この頃は言わなくなったが、顔を合わせるたびに「なんでこんなに生きてしまったんだ。早く死にたい」と言っていた。そうだろうと思う。知っていた人はどんどんいなくなる。周りは大事にしてくれるが、だからと言って何があるというのでもない。

欲望がどんどん希薄になっているのではないか。食欲はあっても、おいしいものを食べたいとまで思っていないのではないか。もともとそれほど酒は飲まなかったが、まったく口にしなくても何も感じないようだ。巨人軍のファンで、子供のころはよく後楽園球場に連れて行ってもらったが、このごろではそもそもテレビも見ない。今ある安寧(それは安寧だろうか)だけが望みということか。ドロドロした欲望がなければ生きる喜びもないということだろうか。