第六話 文宗の批答その二(担当いしはら) | 野記読書会のブログ

野記読書会のブログ

清朝末期に官僚を務めた人物が民国期になって、清朝時代に見聞した事を書いた『清代野記』の現代語訳。
毎週日曜日に4話づつ更新予定。
底本は張祖翼(坐観老人)撰『清代野記』(北京:中華書局,近代史料筆記叢刊,2007年)を使用。中華書局本の底本は1914年野乗捜輯社鉛印本。

伝え聞くところによれば、殉職した浙江巡撫王有齢の父は雲南昆明の知県であり、処刑された両江総督何桂清の父は王(有齢の父)の簽稿門丁をしていた。何が実は王と血の繋がりがあるという話も有るが、はっきりとした事は解らず、むやみに判断する事は出来ない。ただ王有齢が幼い頃役所の中で勉強をしている時、何桂清もまた傍で一緒に勉強した。彼は異常なほど聡明で十五歳で作った八股文はすでに老成しており、一字も修正できるところは無かった。科挙を受けたかったが籍が無かったので、昆明の紳士に相談し、籍を申請し科挙を受けた。生員となり、となり、郷挙に連勝し、進士となって翰林院に入った。年はわずかに十八であった。まもなく高位にのぼり、封疆となった。この時まだ三十余歳であった。 咸豊九年、何桂清は江蘇総督となった。王有齢もまた捐納によって塩大使となり、推薦によって江蘇布政使に昇格した。すべて何桂清の力添えによるものである。杭州城が初めて陥落した時、巡撫の羅遵殿は殉職し、廷議はこれを誹った。何桂清は王有齢であれば任に堪えると推薦した。一度目の奏上に文宗は朱批を加え「王有齢王有齢王有齢」という九文字を書き、可否を言わなかった。二度目の上奏には「あなたは王有齢の事しか知らないのか。」と返答した。三度目の上奏には王有齢がもし御信任に背くような事があれば、私を濫保の罪に問うてくださいと書かれていた。そこで初めて浙江巡撫に任命した。杭州城が再び陥落すると、ついに王有齢は城とともに死亡した。これは推薦者に罪が及ばない案件というべきであるが、この推薦者はそうはならなかった。漢陽の陶新柏は何桂清の幕府で奏上関係の仕事をしており、後によくの話をしていた。