手術が終わり、退院した。
体調は万全で、仕事にも復帰して、
後は、術後1ヶ月の診察で、
子宮頸部の切り取った部分の、病理検査に問題が無ければ安心だ。
入院中、手術が終わり、まだ麻酔でもうろうとしながら、いろんなことを考えた。
何回も繰り返されたのは、
(このままでいいのか)
という言葉だった。
昨年末、父の自営の仕事が終わり、ずっと手伝っていた私は、
望んでいた通り、時間が出来たにも関わらず、
保護活動への舵取りが出来なかった。
今までより、時間が自由になるにも関わらず、
保護活動をもっと大きくしよう、
1人では無理だから、仲間を作って活動しよう、
と思うことが出来なかった。
自分で収入を得て、
その中で、出来る範囲の中でやっていこうという考えに至った。
自分のコミュニケーション能力の無さ、人間が苦手、人間が嫌い。
この性格は、保護活動を大きくする為には、
致命的な欠点となっている。
もう18年前。
父の自営業(製麺業)の工場と、自宅は繋がっていて、
工場で火災が起こり、
工場も自宅も、全焼した。
原因は、従業員が、天ぷらの揚げ玉を広げて帰らず、山盛りにしたまま帰った為、
くすぶった揚げ玉の中から自然発火したということだった。
当時、母親の「火事だ」という声が聞こえて、
私は慌てて、2階の自分の部屋から走り、1階の工場に通じる扉を開けたら、
バックドラフトという現象で、顔にすごい勢いの熱風を吹き付けられた。
もう無理だ、と思い、私はパジャマ姿のまま、外へ飛び出した。
まもなく、消防車も警察も来て、
パジャマ姿で呆然としていた私は、パトカーに乗せられ、
後ろの席から、家が燃えていく様子を見ていた。
そして、たくさんの人が、携帯を片手に、ニヤニヤしながら、私の家や工場が燃えるのを撮影していた。
次の日、地元の新聞の一面は、
わたしの部屋から火が吹き出し、何人もの消防士が、そこに向かって放水している写真だった。
結局、家も工場も、屋根が崩れ落ち、何一つ残らなかった。
燃えないゴミと言われるものも、燃えるんだな、と思った。
その後しばらく、祖母の家で暮らすことになっのだが、祖母の家に、よく電話がかかってくるようになった。
「火事にびっくりして、階段から滑り落ちて怪我したから、病院代よこせ」
「車が、すすで汚れたから、洗車代払え」
結局、対応追いつかなくなり、弁護士さんを雇うことになった。
私は、火事が原因で、人間が嫌いになった。
しかし、
もう少し突き詰めて考えると、
火事が無ければ、保護活動を始めていなかったのかもしれない。
当時の思いで、強く覚えているのは、
「あちら側の人間になりたい」
という言葉だった。
「惨めな状態で、助けられている自分」が、こちら側で、
「あちら側」とは、見返り求めず、助けてくれる人だった。
確かに、そのような人がいたことが、救いだった。
保護活動を始めてしばらくして、
自分は、
あの時思った、あちら側の人間になれただろうか、と思った。
そして今、
入院中、麻酔で朦朧としながら、ずっと考えていた。
(自分は、これでいいのか)
(いや、十分やっている)
(違う、もっと出来ることあるんじゃないか)
退院して、家に帰ると、
びっくりするほどの支援物資が届いていた。
仕事をしばらく休んでしまった為、
本当に有り難かった。
たくさんの人に、助けて頂いた。
あちら側の人間は、たくさんいる。
いざとなったら、あちら側の人が助けてくれるかもしれない。
保護活動へ向けて、
もう少し舵取りしていこうか、と思い始めた。