さて、今回は趣向を変えて、法学のお話です。
安保法制論戦たけなわの国会に憲法学者3人を呼んで意見を問うたところ、
3人が3人とも「今回の安保法制は違憲である」などと口走り、
与党内部まで大騒動になっているわけですが。
これはどう考えても与党の大失態です。
だってこいつらが合憲って言うわけないもん。
憲法学者がどういういきものかについてお話しする前に、
法学または法律学というものの特殊性を語らねばなりません。
法は、憲法を頂点として多種多様な法律、命令、条令などが組み合わさった
大きな大きなシステムです。
地方自治体の条例を加えるともっと複雑になります。
一つの世界といってもいいでしょう。
法学者は、この世界から出ることを許されません。
法律のシステムの中で、法律の言葉を使って、全てを論じなければなりません。
ある法律について議論しているときに、
「この法律、そもそも欠点があるからこんな議論になるんですよね」
「この法律ができた理由を考えると、ここをこう変えたら
問題はすべて解決するのではないですか」
と言おうものなら、
「そりゃキミ、『立法論』だろう」
と嘲笑されます。
法律家は、法律の改良・改善など考える必要はなく、
ただ法律の解釈だけを黙々とやっていればいい。
ITのエンジニアがプログラミング言語の改良に手を出さない
のに似ていると言えばいいのかな。
この姿勢自体がそもそもおかしいのです。
実際には法律は改良・改善(法律用語としては「改正」)されています。
改良・改善するのは国会(もしくは地方自治体会)議員であり、
法律家が変えるわけではありません。
しかし法律のことをよく知っているというのであれば
欠点を指摘し、改良の指針を示すことはできるはずです。
でも、彼らにはそれができません。
なぜか彼らの内部で勝手に「自粛」しているのです。
憲法学者ではこれがさらに顕著です。
がちがちです。
なぜなら、日本国憲法は一度も改正されていないからです。
70年間変わらない骨組みの中で、ずっとぐるぐると、
固定観念に縛られて、同じことばかり論じています。
そして、若い学者ほど固定観念が硬い。
憲法が変わる(改正される)ものだなんて考えたこともない。
日本国憲法を不変のものとして、かしずくばかり。
そして日本国憲法を改正しようとする勢力に罵声すら浴びせる。
これはただの宗教です。
(「九条教」とは、よく言ったものです)
硬直化した憲法学会は、もはや未来に向かう歩みを止めています。
日本以外の国々の憲法は、
世の中の流れに応じてその姿を変えています。
普通の法律のように改正されています。
そのくにのかたちをつくるのが憲法ですから、
まわりのくにとのかかわり方(国際情勢)が変化すれば
変わるのが当然です。
「不易流行」という言葉もある通り、
時代に応じて変えていく部分と、
変えてはならない部分があることは間違いないでしょう。
第9条が「不易」に当たるとはとても思えないし、
「解釈改憲」によって、事実上変わっています。
第2項の「戦力は持たない!」という宣言は、
その前にある「前項の目的を達するため」という文言で骨抜きにされ、
そのおかげで自衛隊という立派な軍隊が日本にはあります。
「前項」には、「国際紛争の解決の手段としての戦争をしない」と書いてあるので、
「国際紛争の解決手段としての戦争」をしないのなら、
自衛のためなら軍隊みたいなものを持ってもいいだろう、という
壮大なヘリクツです。
そりゃ違憲に決まっています。
自衛隊を使って何をするのも、違憲になるに決まっています。
いやしくも憲法学者を自称するのであれば、
国際情勢や他国の憲法・法制度についても深い関心を抱き、
「この状況では、憲法の方が時代から乖離している」
「違憲にならないために、憲法をこう変えるべきだ」という議論をしてもよさそうなものですが、
愚かにも彼らは、「憲法は変えてはならないものだ」と信じて疑いません。
愚かです。
第9条第1項の精神を持つ条文は世界中の憲法にあります。
「我が国の軍隊を、国際紛争を解決したり、侵略戦争をしたりするためには使わない」
日本国憲法も、そう書き直せばいいのです。
そもそも論で行けば、「集団的自衛権」は、
個別的自衛権とともに国連憲章51条に明記されています。
自衛権は、国際法上「強行規定」と位置づけられ、
これを奪ったりみずから放棄することはできないものです。
「国にとっての基本的人権」みたいなものです。
「集団的自衛権を使えるかどうか」なんて議論していること自体が、おかしいのです。
愚かです。
医学の世界は日進月歩。
70年前の医学書の知識だけで医者をやっている人がいれば
おそらく「人殺し」と呼ばれているでしょう。
70年前の憲法を盾に「今こそ9条の精神に立ち返れ」などと叫ぶ者は、
人 殺 し で す 。