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緩医(ゆるい)のブログ

緩和ケア医・ゆるいの緩めのブログにする予定。

担当患者さん(80代)の奥さんがこの三日間毎日通ってこられています。


奥さんは患者さんよりも10歳年上なんですが、

認知症もなく、車椅子は必要ですが、お元気です。


最初は、ほとんど反応のない患者さんの横で

「死にかけてるんでしょうか」

「もうダメでしょ」

などとおっしゃるのでハラハラ。

「奥さん、(ご主人は)ああ見えても聞いてらっしゃいますよ」

とお話しすると、ぱっと態度が変わりました。


聞こえているものとしてどんどん話しかけておられるのですが、

愛情表現がストレートで、見てるこっちが照れてしまいます。

旦那さんの手を握りながら、


「お父さん、生まれ変わっても一緒ですよ、また結婚しましょうね」


となんのてらいもなくおっしゃる。

普段はほとんど反応のない患者さんも、

照れたように顔をしかめて手を握り返します。


「結婚だって駆け落ち同然だったんです」

「私はこの人にずいぶん苦労をさせたから」

「でも本当にやさしい人でした」

「いまだってこんなにやさしい」



私のところは結婚二年半。

両親を含め血族・姻族3親等以内に3カップルも離婚しています。


まずは、離婚しないことですが、
できたら、このご夫婦のようでいられたらな、と思います。

 

さて、今回は趣向を変えて、法学のお話です。

安保法制論戦たけなわの国会に憲法学者3人を呼んで意見を問うたところ、
3人が3人とも「今回の安保法制は違憲である」などと口走り、
与党内部まで大騒動になっているわけですが。

これはどう考えても与党の大失態です。

だってこいつらが合憲って言うわけないもん。


憲法学者がどういういきものかについてお話しする前に、
法学または法律学というものの特殊性を語らねばなりません。

法は、憲法を頂点として多種多様な法律、命令、条令などが組み合わさった
大きな大きなシステムです。
地方自治体の条例を加えるともっと複雑になります。
一つの世界といってもいいでしょう。

法学者は、この世界から出ることを許されません。
法律のシステムの中で、法律の言葉を使って、全てを論じなければなりません。

ある法律について議論しているときに、
「この法律、そもそも欠点があるからこんな議論になるんですよね」
「この法律ができた理由を考えると、ここをこう変えたら
問題はすべて解決するのではないですか」
と言おうものなら、

「そりゃキミ、『立法論』だろう」
と嘲笑されます。

法律家は、法律の改良・改善など考える必要はなく、
ただ法律の解釈だけを黙々とやっていればいい。

ITのエンジニアがプログラミング言語の改良に手を出さない
のに似ていると言えばいいのかな。


この姿勢自体がそもそもおかしいのです。
実際には法律は改良・改善(法律用語としては「改正」)されています。
改良・改善するのは国会(もしくは地方自治体会)議員であり、
法律家が変えるわけではありません。
しかし法律のことをよく知っているというのであれば
欠点を指摘し、改良の指針を示すことはできるはずです。

でも、彼らにはそれができません。
なぜか彼らの内部で勝手に「自粛」しているのです。


憲法学者ではこれがさらに顕著です。
がちがちです。
なぜなら、日本国憲法は一度も改正されていないからです。
70年間変わらない骨組みの中で、ずっとぐるぐると、
固定観念に縛られて、同じことばかり論じています。

そして、若い学者ほど固定観念が硬い。
憲法が変わる(改正される)ものだなんて考えたこともない。
日本国憲法を不変のものとして、かしずくばかり。
そして日本国憲法を改正しようとする勢力に罵声すら浴びせる。

これはただの宗教です。
(「九条教」とは、よく言ったものです)
硬直化した憲法学会は、もはや未来に向かう歩みを止めています。


日本以外の国々の憲法は、
世の中の流れに応じてその姿を変えています。
普通の法律のように改正されています。
そのくにのかたちをつくるのが憲法ですから、
まわりのくにとのかかわり方(国際情勢)が変化すれば
変わるのが当然です。

「不易流行」という言葉もある通り、
時代に応じて変えていく部分と、
変えてはならない部分があることは間違いないでしょう。

第9条が「不易」に当たるとはとても思えないし、
「解釈改憲」によって、事実上変わっています。
第2項の「戦力は持たない!」という宣言は、
その前にある「前項の目的を達するため」という文言で骨抜きにされ、
そのおかげで自衛隊という立派な軍隊が日本にはあります。

「前項」には、「国際紛争の解決の手段としての戦争をしない」と書いてあるので、
「国際紛争の解決手段としての戦争」をしないのなら、
自衛のためなら軍隊みたいなものを持ってもいいだろう、という
壮大なヘリクツです。

そりゃ違憲に決まっています。
自衛隊を使って何をするのも、違憲になるに決まっています。

いやしくも憲法学者を自称するのであれば、
国際情勢や他国の憲法・法制度についても深い関心を抱き、
「この状況では、憲法の方が時代から乖離している」
「違憲にならないために、憲法をこう変えるべきだ」という議論をしてもよさそうなものですが、
愚かにも彼らは、「憲法は変えてはならないものだ」と信じて疑いません。

愚かです。

第9条第1項の精神を持つ条文は世界中の憲法にあります。
「我が国の軍隊を、国際紛争を解決したり、侵略戦争をしたりするためには使わない」
日本国憲法も、そう書き直せばいいのです。


そもそも論で行けば、「集団的自衛権」は、
個別的自衛権とともに国連憲章51条に明記されています。
自衛権は、国際法上「強行規定」と位置づけられ、
これを奪ったりみずから放棄することはできないものです。
「国にとっての基本的人権」みたいなものです。

「集団的自衛権を使えるかどうか」なんて議論していること自体が、おかしいのです。

愚かです。


医学の世界は日進月歩。
70年前の医学書の知識だけで医者をやっている人がいれば
おそらく「人殺し」と呼ばれているでしょう。

70年前の憲法を盾に「今こそ9条の精神に立ち返れ」などと叫ぶ者は、

人 殺 し で す 。

一般の方のみならず、医療者の間でもよく誤解されていることですが、
緩和医療は原因となった病気の治療はしないのですが、
原因となった病気の治療をしてはならない、のではありません。


血液内科では「緩和的化学療法palliative chemotherapy」といって
“治療には十分な量ではないが症状を抑えられる程度の量の抗癌剤を使う”
というやり方があります。
抗癌剤が効きにくくなって体力も落ち、十分な量を使うと苦痛ばかり増すが、
病気の勢いを少しでもゆるめられるよう少量の抗癌剤を使い、
苦痛を与えず病気の症状も抑えるという治療法です。


もちろん、この考え方はほかのがんでも応用可能で、
現在担当している患者さんで、少量の抗癌剤を飲みながら入院している人がいます。
副作用が出ず、癌の勢いをどうにか止められるという微妙な量です。


そもそも緩和医療というものは、
普通の治療の提供、特に抗癌剤での治療に限界が来て、
やむなく切り替えるものという認識がありました。
ギア・チェンジという言葉がこの認識を象徴的に表しています。それで、
「抗癌剤治療をしているうちは緩和ケアには入れない」という医療者側の誤解、
さらに
「抗がん剤治療をしているうちは痛み止めは飲めない」という患者さん側の誤解を
生んできました。


現在は、普通の治療と緩和医療は垣根なしに行うものとされています。
治療の初期段階から緩和ケア医や緩和ケアチームが
治療途中の苦痛の緩和にも関わっていこうというアプローチ、
こちらは比較的うまく運ぶのですが、問題は逆側です。


通常の治療って、多くの場合、終了地点というのがものすごくはっきりしています。
抗癌剤が0になるのは、どう考えてもどう見ても、治療の終了じゃないですか。
そして主治医は、治療の切れ目が縁の切れ目とばかり、患者さんと関わらなくなる。
緩和ケア医に丸投げして、顔も見に来ないということになる。


もちろん、たくさん患者さんを抱えて手いっぱいで、
その上治療が終了した患者さんとまで関わりは持つのは、
よほどのスーパードクターでないかぎり無理。
でも患者さんからは、はっきり切れ目が見えてしまって、そこが寂しい。


消化器外科医は、診断、手術、術後の抗癌剤治療、そして終末期まで全部やるので、
比較的患者さんの最期までお付き合いすることが多いのですが、
それこそスーパードクターでないと務まらないほど多忙です。
すべてのがん治療医に緩和ケア研修を受けさせるという国の方針は、
全員を外科医と同じ多忙さに追い込むことになります。
患者さんとしては「治療してくれた医師に看取ってほしい」と思うところですが、
それをやってると医者は全員燃え尽きてしまいます。


まあ、病棟を預かる緩和ケア医としては、
そうですね、同じ病院なら週一回ぐらい、
開業医の先生なら入院後早めの一回ぐらい、
患者さんに顔を見せていただければ、
患者さんは切れ目を感じずに済むんじゃないでしょうかね。


大きな病院の勤務医の先生は忙しすぎてそうもいかないんですが……
なにより自分が足を運ぶ余裕ありませんでしたし……
そして大きな病院の勤務医の先生のご紹介がけっこうこの手のトラブルのもとなんですが……


ゲフンゲフン

ゲホゴホ

ガハッ ゴプッ