国道142号線を丸子から佐久方面に向かい、望月トンネルを過ぎて八幡の分岐を臼田方向に進んで集落を抜けると、視界が開け左手に大きな水田地帯が広がっている。ここが旧浅科村の「五郎兵衛新田」で、元々原野であったところに市川五郎兵衛の手によって用水(五郎兵衛用水)が開削されて水田耕作が可能となり、穀倉地帯に生まれ変わったところである。

 

 

五郎兵衛記念館玄関1

 

五郎兵衛記念館玄関2

 

 水田地帯を少し進むと、142号線沿いに「道の駅ほっとぱーく・浅科」がある。このすぐ近くの小高い丘の上に、「市川五郎兵衛」の偉業を顕彰して建てられた、「市川五郎兵衛記念館」がある。

 

 

 近くに親戚があり、子供のころから「用水を作った五郎兵衛」という人の名前とその功績、親戚のあるところが五郎兵衛新田であることは聞かされていて、この親戚にも何回も行ったことがあるが、記念館に行ったことはなかった。確か、小学校の教科書にも「五郎兵衛新田」は載っていた記憶があるが、定かではない。

 

 

 佐久の帰り道は、この「五郎兵衛記念館」に寄ってみた。

 

 

五郎兵衛用水のジオラマ(リーフレットより転写)

 

 

 記念館には、五郎兵衛用水の開削者である市川五郎兵衛と、用水により開発された五郎兵衛新田についての資料が数多く展示されている。

 

 

 記念館は入館無料であるが、市川五郎兵衛について、五郎兵衛新田について、展示されている資料について、専門の説明員の丁寧な説明があり、大変分かり易い。

 

 

 資料によると、市川五郎兵衛は、今の群馬県南牧村の生まれ。家は、武田家の家臣であったという。

 

 

用水マップ(リーフレットより転写)

(元々の五郎兵衛用水は、赤色表示のライン(左下(西南)方向から右上(北東)方向に流れている。                          

 現在は改良され、 ブルーのラインで流れている。)。

 左下隅が春日の取水口で、望月トンネルの近くを通り、記念館近くで分岐(大盤台)し、

 終端は千曲川に流れ込んでいる。)

 

 

 新田開発のため佐久地方にやって来た五郎兵衛は、江戸時代初期の1626年(寛永3年)小諸藩の許可を得て用水開削に着手。蓼科山の湧水を水源とする鹿曲川の水を、上流域である春日村(同級会で行った春日温泉のあるところ)で取水し、水田開発用地までの20㎞に亘る五郎兵衛用水を5年がかりで開削。この用水を元に、当時矢嶋原と呼ばれていた原野を、水田として開発したのだという。

 

 

よく見ると、人手で掘っている様子が分かる(リーフレットより転写)。

 

 

 記念館には、実際に工事に使われた道具も展示されており、全て人力に依った作業がいかに大変だったか偲ばれる。また、工事の模様を表わした地元小学生の版画の力作も何点も飾られており、この偉業が地域の中でいかに大事にされ、伝承されようとしているか、伝わって来る。

 


記念館の庭より、五郎兵衛新田、浅間山を臨む。左手の枝は、下の「関所破りの桜」

 

 

 建物の庭からは、浅間山を遠望する形で今の五郎兵衛新田を一望することが出来る(写真)。

水田の向こうには旧中山道が通り、その向こうには千曲川が流れている。五郎兵衛新田のある台地は、地形的には千曲川の河岸段丘上にあるため、目の前を流れていてもこの水は水田用には利用できず、五郎兵衛用水がなければ、五郎兵衛新田も無かったとのことである。

 

 

「関所破りの桜」(リーフレットより転写)

 

 

庭の左手には、大きなしだれ桜がある。この桜を「関所破りの桜」(云われは割愛)というそうだが、花が咲くころ是非見に来たいと思いながら、記念館を後にした。

 

 

おまけ

付近の散策マップ