「教育」は「洗脳」だ、と聞くと違和感を感じる。そこで、教育という言葉について今ある知識で考えてみる。


1、言葉は文化
言葉は文化である。
なので、重要な言葉ほどいい加減な捉え方をしては文化が崩れる。

教育=洗脳だという狭い捉え方をすると、その国の教育は長い目でみて洗脳重視の方向に行くだろう。


2、教育を分類すると
普段何となく使っている教育を分類すると、外部から内部からとに分けられる。

洗脳、指導
これはどちらも外部からである。
洗脳は、目標地点を提示させず、とにかく変化させる。
指導は、目標地点はここだと提示してそこへ導く。

発育
これは内部からである。
自分の中から芽生えさせる。


3、洗脳
洗脳という言葉からは、自己中心的なニュアンスを受ける。受ける者のためでなく、自分のために思想を誘導するのが洗脳である。

それが教育だろうか。

結果いい方向に向かうかどうかは関係ない。
教えている途中で相手のことを思わない教育などない。


4、発育
発育という考え方が必要である。
そして、これが出来るのは、思想でなく、ただ能力についてである。

読む力、書く力、考える力、観る力、創る力、調べる力、対話する力、選び決める力……

こういった能力が、義務教育で教えて鍛えるべきことである。

あとは教育以外の場面で出会い、本人がどういう方向に向かうかは決める。



5、信仰は教育できるか
教育はある意味洗脳、という話は、天皇制について話している時に出た。

僕は全く無学なのだけど、天皇というのは象徴で信仰ではないのか?

だとしたら、信仰は教育できるのか?ということ。できるとしたら、方法は生活の中に取り入れるべきであって、論じることではないと感じる。

そういう、背中で語る教育。


6、問題点
なぜこんなことを考えるかと言うと、そもそも僕が嫌なのは、伝統を失うということ。

それが一度途切れれば復活できないのではないか、と考えている。

では、天皇に関する教育の伝統はどうか?
一度途切れたのではないか?そういう疑問がある。

途切れた影響で、学ばなかったのが僕である。

そういう歴史の人間が、簡単に信仰を得られるのか、というのを知るために慎重に自分を観察しないといけない。

もし得られるのであれば、伝統を失うことを過度に恐れる必要があるのか、という疑問がうまれる。

そもそも、天皇が続いているから学べばたやすく蘇る、というのであれば、文化を維持することの重要性を実感することになる。

僕にとっては、これを明確にすることは重要なこと。


7、アクションプラン
今回、分からないことだらけの中、今後言葉の意味をより理解していくために一まず思うことを書いてみた。

教育の問題は自分の人生と大いに関係する。

子供を教育する場面があるかもしれない。
また、あることについて自分より知らない誰かと話すとき、教育をすることになる。

次の問題は、自分にとって学ぶべき重要なことか、そうでないかの判断はどうすればできるか。知識をつければ、必要か不要か感じられるのか。ということ。

また、義務教育で教えるべきことはなにか、について考えてみる。