タニワブルー 千数百年の眠りから覚めておはようございます
大風呂南1号墳から出土したガラス釧(くしろ)
(前回までのあらすじ)
私、千足の里は弥生時代の貴重な青いガラス玉を求め丹後の国へと旅立った。しかしそこには思いもよらぬ罠が待ち受けていたのだった。失意のもと、海辺の大成古墳群へ向かった千足の里。海風に吹かれ、古墳を眺めるうち、ある重大な秘密に気づく・・。(←嘘です)
さて、大成古墳群のある高台は景色も良く、家から持参したお結びで遅めの朝食をとりました。
次の目的地へ出発。
10時半 奈具・奈具岡遺跡群
ここは玉と鉄器の一大生産工房として、丹後王国の産業を支えてきた場所です。
水晶玉含め、様々な玉作りがされていたようです。どのような所なのか見てみたいと思っていました。
しかし今はビニールハウスが立ち並び、ぽつんと看板があるのみ。
とりあえず、広い岡の上にあるということはわかりました。
また、近くに奈具神社があったので、行ってみました。
丹波国風土記にも載っている、由緒正しき神社です。
苔が綺麗で、落ち着いた雰囲気でした。ここはまた行ってみたい感じです。
ご祭神は豊宇賀能賣神
あれ?今思ったんですけど、豊岡って豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ)の名前の音と似てますね。
それでいいなら、間人もわざわざ「たいざ」に直さなくても良かったんじゃ?
豊受大神様は、丹後、丹波地方では重要な神様なんですね。
ご神木?うねる
さて、53号線を走り、次に向かったのは大風呂南墳墓群です。奈具遺跡から宮津湾方面に抜ける道で、深い山もなく、案外と昔から使われていた道だったかもしれません。
大風呂南1号墳からは青く透明なガラスの腕輪が出土しました。ほかにも豊富な副葬品で古代丹後を代表する弥生王墓となっています。
横にあるのは電波塔
ここも看板がなければよくわからない遺跡でした。。いや、看板あっても分からないし。
軽自動車一台ほどしか通れない荒れた道が怖かったです。いや、誰ともすれ違いませんでしたが。
少し上がると見晴らしのよい場所に出たので、いにしえの景色をなんとなく想像したら満足しました。
ここは海を見つめる王墓ですね。
眼下に広がる阿蘇海。
ここで12時のチャイム。次は、出土したガラス釧の実物を見に行きます。楽しみ。
与謝野町立古墳公園入口
加悦にあります古墳公園に着きました。ガラス釧の特別公開は、中にあるはにわ資料館でやっています。
その前に。
この公園は、古墳公園というだけあって、丹後地方を代表する古墳が盛りだくさんです。
たとえば、
作山古墳群
蛭子山古墳群
など。
それぞれに見ごたえがあって、細かく紹介したいところですが、それはまた次の機会に。
今回は弥生のお話ということで、先に進みます。
資料館に入ると、入り口に「写真撮影できます」の看板がありました。最近は禁止のところもあって嬉しい案内です。
そんなに広い資料館ではないので、すぐにわかりました。お目当てのガラス釧です。
青いガラスの腕輪
光線のかげんなのか淡く透き通っていて、吸い込まれそうな青です。
丹後はその昔タニワと呼ばれていたので、これはタニワブルーという称号を贈ってもいいくらいですね。
タニワの時代から千数百年以上眠っていたガラス釧(当時は何と呼ばれていたんだろう)。
急に明るいところでお披露目されて、釧さんもさぞかしびっくりしているに違いありません。
しないか・・。
とにかく、綺麗でずっと見入っていました。不思議な魅力があります。形も整っていて、弥生時代の人は手先が器用だったんですね。
他にも資料館にあった弥生の人の仕事っぷりを紹介します。
最後の写真は日吉ヶ丘遺跡から出土した管玉です。
もう、びっくりするほど小さいです。
どうしてこんなに小さくしたの?って聞きたいくらい。弥生遺跡から出土するガラス玉もたいがい小さいし。この時代は小さいことに何か意味があったのでしょうか?
誰か知っている人があれば教えてください。
何にせよ、これらを大量に作るには並大抵のことではない、ということだけは理解できます。
その後、この公園を出てすぐの日吉ヶ丘遺跡に寄ってみました。
時間は14時。あまりゆっくりはできないかも。
日吉ヶ丘遺跡
ちょっと低めの高台に日吉ヶ丘遺跡はありました。目の前に田んぼが広がり、ここは領地を見つめる王墓のようです。
多数の管玉以外にも、複数の鉄器が出土しており、弥生時代の中期に貴重な鉄器がここに集まっているということは、タニワの王の勢力がいかに大きかったかを物語っています。
一歩進んでる感がありますね。
このお墓は方形張石墓なのですが、因幡の岩美にも同じく張石をした新井三嶋谷墳丘墓があります。
同じ日本海側の者同士。やはり繋がっているのかなと思います。
今回、このことも確かめたいことの一つでした。
山陰海岸には多くの海洋ゴミが流れてきます。
今回行った立岩の場所にも、たくさんのペットボトルが打ち上げられていました。韓国語や中国語のです。
昔はゴミだけでなく、舟に乗った人間も容易に流れ着いたことでしょう。
日本海側は、常に外敵にさらされている状態です。食糧を増産することも大切ですが、同時に守りを強化するのは必然のことです。
当時それができる力を持っていたのが丹後であり、他に先んじて日本の守りを固めてくれた先達であったと思います。
ありがとう、丹後王国。
ビバ、丹後王国!
さて、十分満足したので帰ることにします。
途中で途中ケ丘運動公園に寄りました。ここも丹後地域を代表する弥生時代の大規模集落跡です。
この前行った布勢の運動公園によく似た感じです。
年配者は歩き、若いアスリートは走り、子供たちが広場で遊び、若い家族の笑い声が響く。
遺跡もいいけど、こんなのどかな時間が流れている今もいいなと思いました。
丹後を後にし、但馬あたりで日が暮れて、夕餉の匂いのする因幡に戻りました。
(おわり)