古市神社 | ご近所の神社訪問記

ご近所の神社訪問記

近場の神社や、気になる神社の紹介です。
神社のいわれ、神様やそこに住んでいた昔の人などに思いを馳せてみます。たまに岩や石のことも紹介します。

古市(ふるいち)神社

所在地

鳥取県鳥取市古市

祭神
経津主命、武甕槌命

氏神
武王大明神

補足
土俗の説に当村の氏神まだ人間に在はせし時、蝮蛇に咬まれたまひ怒り安からず、この里の蝮蛇をことごとく大呂山に追放したまふ。この神三人の兄弟在はして、二人は吉成・富安の主なれば、この三村の傍らそれからに蝮居ることなしと云ふ・・・(因幡誌より)

ご近所の神社訪問記-古市1
古市神社は平成8年大路川の改修に伴い現在地へ移転。


ご近所の神社訪問記-古市2
ジャスコ鳥取の駐車場から眺めた古市方面。手前に袋川の土手。


ひと言
『因幡誌』によりますと、この古市の氏神様がまだ人間ではなかった時、この里で蝮に咬まれたことに怒りが収まらず、蝮を大呂山に追放したということです。近隣の富安、吉成の主は古市の神様の兄弟だから、これらの村にも蝮はいません、と。
もう、ここまで書かれるとマムシは「蝮」という名の何かのように思えます。追放とまで言われています。

蝮は毒虫であり、昔も怖い、やっかいなものだったのでしょうか。
しかし蝮の字を『古事記』に見るとき、「蝮」は「たじひ」という読みになり、部民制の蝮部、丹比部に繋がっています。
八頭町(旧八東町)には今でも丹比(たんぴ)という地名があり、式内社である布留多知神社があります。ここにも不々岐と称す兇徒(又は鬼)を祭神が追い払った、という言い伝えが残っています。

丹比部は反正天皇の御名代部で、河内国の多治比柴垣宮という地名に由来しているといわれていますが、河内と因幡には共通している地名が多くあります。古市という地名も河内にありました。八上小学校なんてのもありますね。
そうしてみると、やはり因幡は古来より中央の権力と強い結びつきのあった土地といえます。

『記紀』の生まれる前の日本はどのような状況だったのでしょう。
白村江の戦いが663年にあり、その前に百済の帰化人が急速に増えたことは歴史上にも周知のとおりですが、それより少し前の651年、ササン朝ペルシアが滅亡したことを忘れてはなりません。アラビア人に滅ぼされるまで425年続いた世界の大国でした。シルクロードが運んできたのは絹だけではなく、少なからず逃げてきた人も入ってきたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

よく「日本の文化は大陸から来た」といわれます。しかしガラスや鉄など主だった技術はその向こうに花開いていた文化であり、大陸は単なる通過点でしかないことを、学校ではもっとはっきり教えるべきです。

部民制、氏姓制度など、この時代、どうしても日本に住んでいる人々を整理しなければならない事情があったのだと思います。
そして、出自によっては少なからず衝突はあったのではないでしょうか。後々の同和問題にも繋がっているかもしれません。

人々を整理してどうするかというと、収税と国防です。黙っていても入ってくる税のシステムの確立と、その利権を守るための軍事強化を推し進めます。中央政権の最大の関心ごとは、それしかありません。
この後、文献によると因幡に対して、たびたび日本海沿岸の警備の強化が発令されています。

昨日もTVで流れていたニュースは、基地移転や税金の問題でした。
1300年たっても、中央が頭を悩ませている問題は変わらぬようです。