もうすぐ世界遺産登録から3周年の御所野縄文公園(岩手県一戸町)

 

 

 

 御所野縄文遺跡には配石遺構の南側に、盛土遺構と呼ばれる場所があり、土器片、石器片、動物の骨、木の実などの焼けたあとがたくさん見つかっています。焼けた土の跡もあることから、ここで「もの送り」の儀式をしたのではないかと言われていますーーかつてガイドをしていたときはこんなふうに説明したものです。送りの儀式というのはアイヌに伝わるもので、この世での役目を終えたものをあの世に送ってやる儀式、というのがわたしの認識です。では縄文人はなぜそんなことをしたのでしょうか? そうせざるを得なかったからなのか? そうしたくてたまらなかったからのか? ちゃんと考えたことはなかったのですが、実際にお焚き上げをお願いする機会に恵まれ、その答えがわかったような気がしました。

 

 

写真の奥が盛土遺構

 

 

  6月某日、盛岡にある株式会社メモリワーク紡さんに亡くなった娘の遺品のぬいぐるみのお焚き上げをしていただきました。

 

 20年近く前に1歳3ヶ月にして、心臓の病で亡くなった娘は、よく笑う、快活な、いつも明るい子でした。なので、亡くなったあとは、いつまでも思い出の品を抱えてメソメソするより、使えるものは使えるうちにほかのひとに分けてあげたほうがきっと娘も喜ぶ気がして、そのように努めました。

 

 数年がかりで、ほとんどのものが新たな所有者のもとに渡っていきました。残ったのはいくつかのぬいぐるみだけ。何度か、黒いビニール袋にいれて見えないように可燃ゴミに出そうともしました。でもそれはどうしてもできなくて、人目につかない場所にしまい込みました。

 

 人生で何度目かの断捨離をしたとき、ふたたびぬいぐるみたちを目にしました。自分が亡くなった時に棺桶にいれてもらえばいいか? どうにもこれが名案とは思えず、スマホで人形供養してくれるところを検索してみました。調べていくうちに、メモリワーク紡さんに行き当たりました。盛岡だし、費用も思ったよりもかからないことが決め手となり、電話をかけ訪問予約をしました。

 

 訪れるまで、どんなふうにお焚き上げされるかなるべく想像しないようにしました。どんな形であれ、生ごみといっしょくたにならずに済んだだけマシなんだと言い聞かせていました。

 

 訪れたオフィスは住宅街の一角にありました(お焚き上げの場所はもっと人里離れた場所にあります)。3名の女性スタッフの方々が出迎えてくださいました。こじんまりとした清潔で家庭的なあたたかい雰囲気に、心が和み、これなら安心と、ほっと胸をなでおろしました。ぬいぐるみをあずけ、お金を払って、お願いして、わずか10分ほどでその場を去りました。これですべて完了したんだ。そう思いました。

 

 約1週間して完了報告書が届きました。下の写真が添えられていました。この写真を見たとき、思わず胸がいっぱいになりました。涙が出そうになりました。こちらを向いているぬいぐるみたちが、まるで生きていて、最期のお別れを告げているように見えたのです。

 

 

 それまで思い出の品と思いつつも、どこか処遇に困って、見えない場所に追いやって、見ないようにしてきたぬいぐるみたち。それがまるで魂を持った生き物に見えました。そしてこの世での務めを終えて、さよならを告げているようでした。決して未練がましくなく、とても晴れ晴れと、爽やかな様子で。

 

 もはや写真を見なくても、わたしの脳裏には清々しいぬいぐるみたちの顔が焼き付いています。そしていつかわたしが天に召されるとき、あの人形たちが出迎えてくれるような気がしています。

 

 そして御所野でもの送りの儀式をした人たちも、こんな気持ちになったのかもしれない、と初めて縄文の方々の思いがわかった気がしました。

 

 御所野ガイドの先輩から土産(みやげ)の語源は、この世のものをあの世に送る、御上げ(みあげ)と聞いたことがありました。一足早くあの世に行って待っててくれよ、その時が来たら出迎えてくれよ、という思いで見送る人がいたかもしれません。

 

 

 ところで、ちゃんとお別れができないまま、どこにいったかわからないものたちがいます。園芸用スコップ、スプーン、小皿などなど。いまでもどこにいったのだろうと時折思い返すのですが、最近は、もしや先に召された誰かさんのイタズラではなかろうかと想像しています。いつか天国の入り口で、ジャーン、ここにありました〜、とタネあかしされたりするのでは、なんて考えて、ほくそ笑んでいます。この想像の真偽はぜひお伝えしたいところですが、それはさすがに無理ですかね(笑)

 

 縄文時代のもの送りの儀式は、単にものを処分するための儀式ではないと、わたしは考えます。いっぱいつまった思い出をひとあし先にあの世に送ってやる儀式だったのではないかと、わたしは今はそう思っています。

 

 それにしても、縄文時代のように、盛大に送ってやることの叶わない現代において、遺品整理、生前整理という仕事を請け負ってくださる会社があるのは、ほんとうに大変ありがたいことだと思いました。