コンベンションの仕事をした時、
高校生のお母さんである中国人の人と、大学の話とかしてると、
フランス語担当の20年パリ在のアメリカ人の人が、横から、
「ねーねー。 あなた達って、タイガー・マムなの?」
“タイガー・マム” とは、子供の精神や、気持ちや幸せを考慮せず、
学校の成績はトップを求め、音楽や語学などいろいろ習い事をさせる、
日本で言う教育ママとかスパルタママのことなんですが、
会ったばかりなのに、そんなことを面と向かって聞く彼女のことが可笑しくて、
先週、ドイツ人の人を含めて三人でランチをした時、
「この人、私とあの中国人の彼女に、タイガー・マムなのかって聞くよ。 信じられる?」
と笑いながら言うと、ドイツ人の人、
「ああ。 私もそうなのかと思った。」 と。
それがまた可笑しく、大笑いして、
「なに言ってるのよぉ。
タイガー・マムの息子が、ビデオゲームのキャラクター・デザイナーになるわけないじゃないの。」
二人とも、「そりゃそうだわ。」 と笑い、納得してましたが、
外国人にしたら、アジア系の母親は皆、タイガー・マムのイメージなのでしょうね。
確かに私も、昔は、長男にピアノのレッスンを受けさせ、テニス・クラブに通わせ、
タイガー・マム的なことをしていた時期があるんです。
一人目は特に、親も力が入りますし、
親の自分がちゃんと伸ばしてやらなくては、押してやらなくてはと頑張るわけですが、
子供が成長するにつれ、子供の人格や好み、興味が発達し、親とは別のひとりの人間となっていき、
親が望む型には嵌まらなくなるんですよね。
その時どう対応するかが、タイガー・マムか、そうじゃないかの違いのような気がします。
まあ、タイガー・マム達は、子供が自分が決めた型に嵌まらないってことを認めないでしょうし、
気が付きもしないのでしょうけど。
私が科学系の人ですから、昔は、長男にそっちの方に進むことを希望してたんです。
実際、長男も生物学が好きで、本人も将来の夢にしてました。
でも、中学の頃からデジタル・アートとかビデオ・プロダクションとかに興味を示し出し、
ある日、「マム、僕、こういう道に進みたいんだ。」 と言ってきたんです。
ちょっと照れくさそうにも、顔を輝かせてそんなことを言われたら、
親としては、100%、いえ、200%サポートしないわけにはいかないじゃあないですか。
あれから10年、今じゃあ、フリーランスしながら、大学院でデジタルアートの講師をしてますよ。
で、この前、二人であれこれ喋ってて、ふと長男が、
「マム、あのね。 僕、今の自分が結構好きなんだ。 こんな自分に育ててくれて、ありがとう。」
なんて言うんですよ。
もう、涙がぼろぼろ流れて、顔がぐしゃんぐしゃん。
自分の好きな仕事をし、自分のことを好きでいれる人に子供を育ててやる。
これこそ子育てのゴールだと、私は思うんです。
19歳の次男も、時々私と一緒に探索しては、将来の自分へと進んでいます。
だから、この私がタイガー・マムかと思われたこと、なんだか可笑しくて、可笑しくて。