回顧録: 息子への手紙 22 | グローバルに波乱万丈

Dear MY SON、

ロンドンで借りていたフラット(アパート)は、窓からは路上が少し見えるだけの陰気な半地下の部屋で、玄関のガラスのドアを通して、来る人が階段を下りてくるのが見える造りでした。

ノルウェイ人の彼が来るという午後、私はずっとソファに座って彼が階段を下りて来るのを待っていました。 始めのうちは、“パリであの時、ああ言えばよかった、ああ振舞えばよかった。”と思い返し、“今回もっと知的に接したら、彼の心を変えれるかもしれない。”などと考えていたわ。 タクシーが止まる音がする度に胸を躍らながら、一時間、二時間と時間が経っていきました。 

彼から近いロンドンにアパートまで借りた自分... 母親の自分... 馬鹿な自分。 彼に会いたいという気持ちよりも、来ない人をじっと待つ愚かな女になりたくないという気持ちで、泣きそうなりながら彼が階段から下りるてくるのを願うように待ち続けました。 でも、結局、彼は来ませんでした。

惨めで、情けなくて、長い間、呆然として動けなかったわ。 

“私...何やっているの? なんて母親なの?” 

あの時、夕焼けの薄暗い半地下の部屋で、足早に家路を急ぐ人達の足を見上げながら、私の心は病んでいったのかも知れません。 ずっと張り詰めた思いでいろんなことを耐えてきて、その時限界に達したのかも知れません。

後日、彼から、“予定が変わって急に行けなくなったんだけど、君のアパートには電話がないから連絡が取れなかったんだ。 ごめん。”と、オスロから手紙が届きました。 でも、その時にはもう、自分が幸せになりたいがために小さな貴方を連れ回している駄目な母親、馬鹿な女... そんな自分に対しての罪悪感、劣等感、失望感の渦路の中で、彼のことなど考えたくもありませんでした。 

「どこかへ向かう飛行機の中で、またいつか偶然に会いましょうね。」 

彼に私の本当の精神状態を知られないように、軽い、明るいお別れの手紙をオスロに送りました。


あれから20年近くの時間が経ち、すっかり彼の名前など忘れていたのだけど、貴方にこの手紙を書くにあたり、記憶を辿るために古い手帳を引っ張り出し、そこにあった彼の名前を検索してみたの。 彼は、同じ会社で今では重役になり、記事を書いたり本も出版しているようでした。 さすがね。 突然画面に現れた皺のできた50歳前の彼の写真を見て、ぼんやりと私は“家族や周りの人達の期待通りの人と結婚して、幸せな人生を送っているならいいけれど...”と、願っていました。 

正直言って、そんな自分が意外だったわ。 もちろん別に彼のことを恨んでいたわけではないけれど、あの後、本やニュース雑誌を読んで教養を身につけようとしたのは、彼の言葉に傷ついたからだろうし、彼の言葉がなかったら、私はアメリカで大学に行こうとは思わなかったかも知れないわ。 悔しかったのでしょう。 まあ、それが向上心につながって、結果的には私には良かったことなんだけどね。

でもね、私、40代になって、今まで背負って来た拘りやわだかまりも消えていき、粋がることも、強がることもなく、肩の力を抜いてとても楽に人生を送れているの。 だからでしょうかね。 自分に優しく、そして人に優しくできるような気がするわ。 彼はもう私のことなど覚えていないでしょうけど、海の向こうにいる彼の幸せを心から祈うわ。 だって、世の中、幸せな人が多いほうがいいじゃない。 


Love、MOM


追伸

貴方はこれから当分の間、粋がって、強がって生きていかないといけないわね。 自分に優しくなれない時もあるかも知れない。 そんな時はうちに帰っておいで。 お母さん、貴方の好物をたくさん料理して待っていますから。 I love you with all my heart, and I will always love you no matter what. You are my son forever and ever.