回顧録: 息子への手紙 6 | グローバルに波乱万丈

Dear MY SON、

私のアメリカ生活の始まりは辛いものでした。 幸せを夢見てやってきただけに、幸せじゃあない自分が可哀そうで仕方ありませんでした。

まずは言葉の壁。 大人だった自分が突然、何も自分ではできない、世の中で何が起こっているのかわからない子供になったようで、とても情けない気分でした。 テレビはほとんど理解できず、観るとしたらMTVなどのミュージック・ビデオか子供向けの「セサミ・ストリート」。 ニュースなんて何を言っているのか、映像を観て想像するくらいのこと。 大人の会話には参加できず、いつも部屋の隅で静かにしていたわ。 下手に何か言えば、発音や文法の間違いを、義弟達からかわれていましたからね。 とってもいい子達だったんだけど、お情け無用のティーネージャー時代でしたから。 日本で冗談を言って人を笑わせていたおしゃべりな私だったのに、面白くない、つまらない人間になってしまったことが、とても辛かったわ。

つまらない人になったことより、ダサい人間になったことがもっと悲しかったの。 日本ではそれなりに流行を追ってお洒落な私だったのに、ファッションの違うアメリカでは私が持って来た服は奇妙に思われたし、当時の余りにも違うアメリカのファッションを把握することがなかなかできなかったし、それにお洒落な服にお金を使える状態じゃあなかったから、いつも野暮ったい格好をしていたわ。 プライドなんてぼろぼろ。 まあ、お酒もカフェインも禁止のその宗教の街にはカフェもカフェバーもなく、お洒落して出かけるところもなかったんだけどね。

学生結婚だったから生活は苦しいものでした。 彼の両親はお金持ちだったけど、アメリカでは親は親、子供は子供って考えですからね。 私は何年アメリカで暮らしていても、そういう考え方にはなれないんだけど、まあ、義理の両親は私達のためと思って、援助しなかったのでしょう。

私に労働許可が出次第、義母が鉄板焼の日本食レストランのバイトを見つけてきました。 車はボロ車一台しかなかったから、住み始めた低収入者用のアパートからバス停まで歩き、20分くらいバスに乗り、バス停からレストランまで歩き... たかが二、三千円稼ぐために通ったものです。 惨めだったわ。 日本でハイヒールにスーツやワンピースを着てビル街で仕事していた私が、シミだらけのぺらぺらの浴衣を着て、英語が上手くしゃべれないことで他の若いバイトの子達やお客からバカにされ、見下されるウエイトレス。 辛かった。 

街には日本人が結構たくさん居たんだけど、教会の信者だから私とは別世界の人達ばかり。 ディスコで遊んだり、バーでカクテル飲むことなんて、罪深き汚れた女がすることと思っている人達だったから、自分の過去を隠して無理に合わせてつき合っていたわ。 

自分が自分でなくなってしまったようで、日本に帰りたかった。 昔の自分に帰りたかった。

前夫は彼なりに頑張っていたんだけど、外国からの妻が、言葉もわからず勝手もわからず何も自分でできなくなること、家族からも友達からも離れて孤立してしまうこと、そんな妻にとって自分が全てになってしまうこと... 責任の大きさを若かった前夫が、予測できなかったのも無理もないでしょう。 それを頭で理解していても、自分が可哀そうで、前夫に腹が立ってどうしようもありませんでした。

でも、アメリカに来ることに決めたのは私自身。 誰かに無理やり連れて来られたわけじゃない。 自分が選んだ道だったんだから、前夫に怒りをぶつけるのは間違っていたわよね。

夜、喧嘩してはアパートを飛び出し、行くところもないからアパートの周りをうろうろしたものです。 そのうち、自分でもまたうろうろするだけってわかっていたから、飛び出す時にウォークマンを掴んで飛び出していたわ。 
ウォークマンってね、カセットテープを入れて音楽を聴く小さなプレーヤーのこと。 iPodなんて未来映画のようなことの時代。 日本を発つ時に友達が作ってくれたテープを、暗いアパートの陰に座り込んで、何度も何度も聴いていました。 

そのテープの中に、新幹線のCMで使われていた曲があってね。 上京した女の子が帰省で故郷の駅に降り立つと、プラットフォームには友達がたくさん待っているの。 曲を聴きながらその女の子と自分の姿が重なり、日本に帰りたくて、帰りたくて。 暗闇でコンクリートの上で丸くうずくまって、声を殺して泣いたものです。 

インターネットもスカイプもない時代。 日本のチャンネルも新聞も手に入らず、日本で何が起こっているのもかわりませんでした。 日本語が恋しくて、街の日本人の人達から借りた3年前も4年も前の雑誌に、何度も何度も目を通していたわ。 友達からの手紙が届けば救われたように嬉しかったんだけど、まだ独身の彼女達の日本の生活の話に、余計空しくなるだけでした。

帰りたかった。 日本に帰って流行りのお洒落して、電話一本で出て来てくれる友達と集まり、たくさん顔見知りのいる夜の街に繰り出したかった。 そんな夜を夢にまで見ていたわ。 お母さん、若かったから。 まだ23歳の時のことでしたからね。


その後、日本に帰れることがあったけど、私の親は子供の面倒は母親がするものと、貴方の子守りをしてはくれませんでした。 街を思い、友達を思い、布団の中で泣いていたわ。 何年も経って、お父さんと一緒に日本に帰った時、お父さん「僕が子供達をみるから、街に出かけておいで。 夢を叶えておいで。」って言ってくれたけど、友達は結婚して街からいなくなってしまっていて、私にはもう日本の流行りのお洒落もわからないし、私を笑顔で迎えてくれていたお店は消え、知らないお店ができてしまっていました。 

時間が流れ、もう二度と戻ってこないあの時、あの街。 今でも時々、夢に見ることがあるわ。 

続きは次の手紙で...


Love、MOM


追伸

今という時間は今だけで、二度と戻ってはこないの。 今の友達との時間、一時一時を大事に過してください。 お母さんも、こうして貴方達と家族一緒の残り少ない時間を、胸にしっかり刻みつけながら過しています。 でも、どんなに大事に過しても、きっとお母さん、戻らぬ今の貴方達との時間をのちに夢見ることでしょう。 I love you with all my heart, and I will always love you no matter what. You are my son forever and ever.