回顧録: 息子への手紙 5 | グローバルに波乱万丈

Dear MY SON、

桜が満開の故郷を泣きながら発ち、悲しみや不安な気持ちでくたくたの旅でした。 ロサンジェルスで乗り換えた飛行機の窓から前夫の住む街を見て、「ここで本当にやっていけるのかしら。」と、憂鬱な気持ちだったわ。 

空港で胸をときめかし待っていた前夫に、私はどんな顔をしたのかしら? 彼は映画のような感動的なシーンを想像していたのでしょうけどね。 「あんまり嬉しそうじゃないね。」って言われたのを覚えてるわ。 確かに、不安と疲れで、感動も再会の喜びも感じませんでした。 

彼の家は丘の斜面に建つ大きな家でした。 貴方の記憶には残っていないでしょうね。 三つある大きなリビングルームの一つには大きな窓があって、大きな湖が見渡せたこと。 

彼の両親は仕事から帰宅していませんでした。 私、なんてナイーブだったのかしら。 あの写真の中でクリスマスツリーの前で頬を寄せ合い微笑む二人が、息子のお嫁さんになる私の到着を首を長くして待ち、両手を広げて迎えてくれる...そんなシーンを想像していたなんて。 彼の父親は仕事の後ジムに寄り、母親は買物へ行き、二人とも遅く帰ってきました。 洗礼を受けていないことを知られていたし、息子の宣教をめちゃめちゃにした私になんか、会いたくなんかなかったのでしょうね。 一応、微笑みながらハグをしてくれたけど、温かさは感じなかったわ。

彼には妹と、まだ高校生の弟が三人いました。 私はいつもその子達に取り囲まれていたおかげで、両親との気まずい雰囲気からは逃れられたの。 変な英語を喋るし、日本から来た私がもの珍しかっただけなんでしょうけどね。

数日後、不安で憂鬱になっている私を、前夫が丘の上に連れて行ってくれました。 真っ赤な夕焼けだったわ。 雄大な自然って不思議な力があるものよね。 なんとかく気分が晴れ、「こんな夕焼けが見れるこの街で、私、やっていけるかも。」って思ったわ。 その後、辛くてどうしようもなかった時、貴方を連れてよく夕焼けを見に行っていたものです。 一瞬だけでも、幸せな気持ちになれていたわ。  

それからの私は、彼の家族から受け入れられようと一生懸命でした。 英語で気の効いたことが言えない分、いつもにこにこして、母親が仕事に行っている間、夕食の用意をしたり掃除をしたり、妹達に日本から持ってきた自分の物までプレゼントしたり。 日曜日には三時間も延々と続く教会に、興味があるような振りしてついて行ったわ。 

少しして、彼の日系二世のお祖母さんがハワイからやって来きました。 日本語で会話ができるお祖母さんは、私のことをとても気に入ってくれたようでだったわ。 お祖母さんのおかげで、彼の両親は私のことを受け入れてくれ始めました。 

私としては、一旦日本に帰って婚約者ビザを取って戻ってくるつもりだったんだけど、観光ビザで結婚してグリーンカードを申請したほうが早いという情報を、彼の母親がどこからか聞いてきて、急に結婚式を挙げることになりました。 気に入られたいばっかりに、一切義母に反論しなかった私です。 いつの間にか結婚式の段取りがついていました。 

その宗派には特別の結婚式があるの。 洗礼を受けた後、毎週教会に行き、毎月第一日曜は教会が終わるまで断食をし、毎月収入の十分の一を教会に納め、お酒やカフェインのある飲み物を断つなどいろんな厳しい決まりに従い、真面目な教徒であることを証明して一年後、神殿で結婚する許可がもらえるの。 神殿で結婚しないと、天国では家族としては過せないと信じている人達なんです。 計画では、グリーンカードを早く取るためにとりあえず普通の結婚式を挙げ、後に神殿で結婚式を挙げるということでした。 

そんな感じで結婚式を挙げ、アメリカ生活が始まりました。 でも、幸せになるために日本を後にしたのに、現実は想像もつかなかったほど厳しかったわ。 たくさんの犠牲を払って何もかも捨ててアメリカにやってきただけに、幸せでない自分が惨めでしょうがありませんでした。

続きは次の手紙で...


Love、MOM


追伸

夕焼けにでも、道端に咲く花にでも、すれ違う見知らぬ人の笑顔にでも、幸せを感じることができる人が本当に幸せな人なのかも知れません。 小さな幸せを見つけることができる人でいてください。 I love you with all my heart, and I will always love you no matter what. You are my son forever and ever.