およそこの世に「不幸比べ」ほど無意味なものはないだろうなと思っていて
たとえば私の年齢ですと、親はともかく祖父母の世代は確実に戦争を体験していて
それはもう我々からしたら圧倒的な不幸ですよね
ただひとはそうした大きな幸不幸をあまり縦の軸(時間)では語らずに横並びで考えるので、環境や境遇の差はあっても「戦争そのものが不幸の元凶なのだ」と語るだけで
だから「平和な世の中に生まれたお前たちはずるい」などと言う人はまずいない
それはさておき
ふたりの女性がいました
同じ年に生まれたふたりでしたが、ひとりは晩年になって「自分は幸せ者だ」と毎日のように語り
もうひとりは「辛く悲しいことばかりの人生だった」と語っていました
正直客観的に見ると、最初のひとの人生の方がよほど苛酷に思えるのですが、そのふたりを見ていて思ったのです
「幸福も不幸も言った者勝ちなんだな」
不幸を数値化しても意味がない
要は本人の感じ方(あるいは表現の仕方)
だったら私は自分を幸せ者だと言いたい
ま、後者もなかなか幸せそうに過ごしておられましたけどね
「ムロ本、」読みました
私はムロツヨシさんのことを(と言うかムロさんの育った家庭環境を)なんとなく「重版出来」の沼田さんと重ねてたんですよね
根拠なく
きっと成功しようがしまいが本人の幸せだけを願って一心に応援してくれる家族がいて、たとえ夢破れても喜んで迎えてくれる場所があるひと
そういうひとだから遅咲きでもあきらめずに踏ん張って来れたのだろうと
そうじゃなかった
そうじゃなかったんだ
場所はなくてもひと(たち)はいたから、それは大きな支えだったんだろうけど
やっぱり場所がないのはきついだろうと
実際経歴を見ていて、このひとよく心折れなかったなと
子どものころから役者や芸人がいかに食えない商売か(と言うか商売として成立するところに辿り着ける者のいかに少ないか)を叩きこまれて来ましたが(いえ、そういう家庭ではございません)
才能があって努力を怠らなくてもほんの少しの運に恵まれなくて去って行く人を見てきたから
心が折れなかったのは帰る場所がない強さなのか
芝居は不思議
家族の愛情を一身に受けて育った男が愛を知らずに育った役を演じ
孤独を余儀なくされた男が絵に描いたような幸せな家庭に育った役を演じる
それでもすべてを「これは、喜劇。」と閉じるならば
それを喜劇にするのはそのひとの力
役者にとってすべての経験は糧になると言うけれど
誰ひとり、他人の人生は生きられないから
自分の通って来た道で勝負するしかなくて
だから稲垣吾郎が発したことばはムロツヨシのこれまでを完全に肯定したのだと思う
少なくとも彼の役者人生を
「交渉人 真下正義」を観た時に、「誰?なんで私このひと知らないの?」と妙に焦ったんですよね~
なんか絶対知らないとまずい空気がプンプンしてたもん
で、ずっと気になってて、ちょっとずつ見かけるようになって
「メレブ」で爆発した
まわりがボケすぎるから敵味方構わずツッコミ続けないといけない
いいよなぁヨシヒコ
ムロ本、には役者さんたちのことばもありますが
どんなに仲が良くても切磋琢磨し合える関係でなければ慣れあいの友情なんて芸の邪魔くらいに考えている非情な私でさえも納得できる良い関係を築けるひとなのだなぁと思います
同時にやはり今は「ここ」が彼の帰る場所として重要なのかなとも
読んでよかったですよ、とても
あ、「女」のイメージは私的には小林聡美か堀内敬子なのですが、外山恵理も悪くないですね
あの笑い声がね、好き