『デ・キリコ展』 | 奈落の底の実験室

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公式HP引用


 イタリア人の両親のもとギリシャで生を受けたジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。


1. 形而上絵画

 1910年頃から、簡潔明瞭な構成で広場や室内を描きながらも、歪んだ遠近法、脈絡のないモティーフの配置、幻想的な雰囲気によって、日常の奥に潜む非日常を表した絵画を描き始めました。後に「形而上絵画」と名付けた1910年代の作品は、サルバドール・ダリやルネ・マグリットといったシュルレアリスムの画家をはじめ、数多くの芸術家に衝撃を与えました。


イタリア広場

 1910年にフィレンツェに移ったデ・キリコは、ある日、見慣れたはずの街の広場が、初めて見る景色であるかのような感覚に襲われます。これが形而上絵画誕生の「啓示」となりました。「イタリア広場」のシリーズはその原体験と密接に関連しており、柱廊のある建物、長くのびた影、不自然な遠近法により、不安や空虚さ、憂愁、謎めいた感覚を生じさせます。


形而上的室内

 第一次世界大戦の勃発により軍から召集を受けたデ・キリコは、1915年にフェッラーラの病院に配属されます。ここで彼は、この町の家の室内、店先のショーウインドウなどに魅せられ、室内画を制作していきます。このシリーズは、線や四角、箱、地図、ビスケットなどのモティーフを組み合わせて構成されました。


マヌカン

 デ・キリコは「形而上絵画」において、マヌカン(マネキン)をモティーフとして取り入れました。これにより、古典絵画において重要なモティーフであった人物像を、他のモティーフと同じモノとして扱うことが可能となりました。マヌカンはしばしば、謎めいたミューズたち、予言者や占い師、哲学者、はたまた自画像など、様々な役割を演じています。


2. 1920年代の展開

 1920年代、デ・キリコは従来のマヌカンに加え、「剣闘士」などの新たな主題にも取り組みます。その新しい主題のひとつが「室内風景と谷間の家具」です。これらの作品では、海や神殿、山々など、本来は外にあるはずのものが天井の低い部屋の中にあり、逆に屋内にあるべき家具が外に置かれており、ちぐはぐで不穏なイメージを作り出しています。


3. 伝統的な絵画への回帰:「秩序への回帰」から「ネオ・バロック」へ

 デ・キリコは1920年ごろから、ティツィアーノやラファエロ、デューラーといったルネサンス期の作品に、次いで1940年代にルーベンスやヴァトーなどバロック期の作品に傾倒し、西洋絵画の伝統へと回帰していきます。過去の偉大な巨匠たちの傑作から、その表現や主題、技法を研究し、その成果に基づいた作品を描くようになります。


4. 新形而上絵画

 1978年に亡くなるまでの10年余りの時期に、デ・キリコは、あらためて形而上絵画に取り組みます。それらは「新形而上絵画」と呼ばれ、若い頃に描いた広場やマヌカン、そして挿絵の仕事で描いた太陽と月といった要素を画面上で総合し、過去の作品を再解釈した新しい境地に到達しています。


 本展はデ・キリコのおよそ70年にわたる画業、さらに彼が手掛けた彫刻や舞台美術も展示する日本では10年ぶりの大規模な回顧展です。




 デ・キリコの求める謎、不穏、非日常、つまりは形而上絵画(Metaphysical Painting)と呼ばれる作品群がどのようにして生まれたのか興味深かった。

そして90歳で亡くなるまで70年間、常に画家として完全になるべく追求研究を続けていたこと、非難されようが自分のスタイルを貫き通したこと、それが分かった。


個人的にはこの絵が一番怖かった?特に塔の上の旗がはためいているところとか、なんだか不気味で良い。

《バラ色の塔のあるイタリア広場》

1934年頃、油彩・カンヴァス
トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館(L.F.コレクションより長期貸与)
© Archivio Fotografico e Mediateca Mart
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