自分の純度,みたかった未来
(2017年8月7日の過去記事です!)
小さい頃から、“好き!”に、迷いがなかった.子供の頃は特に、“好き!”に、一直線、だったみたいに、想う。※“今”も、だけど.
感じる感覚は、それぞれで 観た瞬間、『ぶわっ、!!!!!!』っと,するようだったり、
涙が出そうになったり,
ぞわぞわと、背中に良い意味の,鳥肌が立つ感じがしたり.
みた瞬間、『気持ちいぃ〜〜〜〜…………』が、どこまでも、広がっていく感覚だったり、
空とか海とか
風が吹きわたって自分の肌を撫でて行ったり
一音目を聞いた瞬間に、『ぎゅんっ!!!!』って
心臓鷲掴みにされたり、全身総毛立って、“これだよ…!!!!、これだよ…!!!!!!”って、魂が、叫んでいたり、
そんなの、まるっとひっくるめて、
“好き!”と、あたしは呼んでる。
みるより早く、触れるより早く、鼓動が跳ねる.
感覚で選んでる.コントロールできない。これが好きだとかいちいち頭で考えるより早くに、先に、『あ,これ』って感じを含んでる。
それは、あたしの“一部”を指す.
その人に、その対象に、なりたいんじゃなくって
『それがあたしだから、それがあたしにもあるから、』
あたしの“なにか”が、あたしより早くそれに『反応』して,出会った時には、もう決まってる。
そのすべてを、あたしは『好き』と呼んでる.
直感的に触れてくるから、『あたしが、』というより、
“向こう”が、選んでくるのかな,あたしを。
感覚は、あたしより大きな、あたしの体をはるかに超えた透明なボディ(意識体)が、あたしより早く、『これ!!!!これ…!!!!!!』って,飛び跳ねて教えてくれる。ぐいぐい、手を引っ張ってって、連れてってくれる。あたしの“意志”じゃないみたいに、でも『あたし』.そんな感覚。
大きなあたし、は、あたしをすべて含むから、広大な空間は、Happyちゃんがいうところの、自分の中に全部ある。この感じに,よくにてる。
あたしが自覚・知覚できる部分は、この一部で、
この大きな本体(意識体)は、すごいでかくて、でも、それも『あたし』で、本来のあたしで、あたしと、その『意識体』みたいのは、別人物、ではない。全く同じ。知覚できる部分が、少ないだけ。けど、流し込んで来るから、よくわかる。
“好き!”は,その典型.自分でも想像しなかった、
触れた瞬間の“好き!”は、ことばを超えたところで、本当は拾ってて、その反応も
感覚も
もっと、他に細かくいろいろあるけど
説明が難しいから、言えないだけ.まるっと、“好き”、そのなかでも、特に純度が高い、純度100%にど真ん中にくる感覚、を“This is it”って、呼んでる。
あたしが、どこへ向かえばいいか、教えてくれて、
それにあたしの、『原点(≒核)』があって,
それは、まっすぐ『あたし』をさして、それが“あたし”だ。ってわかる。
とても、感覚的なもの。
バシャールのいう,『ワクワク』ってこれだ、って、直観的に,『わかる』.
***
なにかのストーリーをへて、とかっていうより,
あたしの感覚は直感的。出会い頭だし、大体のことは、そのピン!とくる瞬時の感覚で,処理されてる。あんまし、うまくは言えないけど
今、自分の頭の上の、少し斜め上の方に,浮かんでる絵を、描写して,って言われても、少し難しかったりする.体感を伴って,『そこ』に、いるから.
から、時々
ふっと、突然
違う街に
海外の、どっかの街角に
自分が、“今この瞬間”たっている、感覚が、ふっと、360度,体感込みで
急に、そんな感じになったりして、それを伝えるのに,
わかりやすく説明するためだけに、
ことばが発達しただけだから、実際のあたしは、その“ビジョン”のなかに、いるの.
思い浮かべるんでもない、想像するんでもない、
自分が選んでるんだけど、
自分で頭でこれがいい、って思ってたものとは、ちょい違ってる.けどもう、慣れてるから、その感覚に従う.
“好き!”も、だから、『向こう』から、やってくる.理屈じゃないし,
無条件だし
そこに感じる感覚を感じてるから、
それは、『わたし』っていう、フィルターを通した、
『わたし』ってこの世界では呼ばれてる,そういったなにか独特の、唯一無二の,(他の、すべての存在が,そうであるみたいに,)
『感じ方(の、個性)』だって,知ってるから、
それを、他の人にすべてみてもらいたいとか、認めてもらいたい、とは思わないし,
理解してもらいたい、とも思わない.ただ、
それって、
雨も
風も
虹も
星も
緑も
空も
太陽も
月も
星も
花も
木々も
みんな、同じものは、ひとつとしてなくて、
なにひとつ、同じものがないまま、違ったままで、すべてが美しくて,すべてが、違ったままで『調和』して、誰も,何にも、なろうとせずに、
自分のままで
太陽の自分のままで
星の自分のままで
花の自分のままで
虹の自分のままで
それぞれの“輝き”“美”のままで,
『調和』してるように、あたしには見える.そのままの、存在するがままの『自分』として自分の命を全うしてる.
だから、自分が好き.
人の存在が好き.
人の輝き,みてるのが好き.
誰かを照らすとき、その輝きを映してる本人が,その光を自分の輝きに共鳴させて、輝いてるんだよね、ほんとうに.不思議だけど。
その人の内側がぼうっ、っと光って、
その輝きを目に映してる本人の,内側も,ぼうっ、っと、光るんだな。あたしには、そんな風に見える時があって.
“好み”は、色々あるけどね.究極はやっぱ、言葉にできない部分を、みてるよ.
その輝きに共鳴するから、輝くんだよ.そして,
その輝きをみてるから、きっと
自分の(個人的な)『好み』を超えて,美しいもの、たくさん,目にしてきたんだろうね。これからも、もっと美しい光景、目に焼き付けたいな.自分の内側に,その体感に、体験・その空間の中に。自分,溶け込ませて、ピュアな、その感じ(≒空間)のなかで,無防備でいたいナ.………そんなこと、ふいに,
感じました。
***
今日は、日本橋三越に,RIE HATA TOKYOさんの、オープンshow caseがあるってんで、バタバタみに行ってきました。感じる熱量と、お腹のなかから、放ってるあったかい、愛のバイブレーション,感じる方だったナ。
自分のアンテナが立つ人は、(つまり、意図的じゃなく惹かれる人、)すべてじゃないけど,
一部分が
よく似てる.
あるがまま過ぎる.って感じ、すごい好き.
見た目以上に,響いてくるものがいつでもあって、だから
瞬間的に,好きになる.きっとね.自分よりも、中にある、深い響くものを、聴いてる.なんか、
そんな感じのした,(≒いつも『感覚』は,そうなんだけど、書きたくなった)1日でした。❤️