13年前、

大学を卒業したばかりのワタシは、
ただただ
アナウンサーになりたいという思いを胸に、
必死の就職活動の末、
やっとの思いで
KYT鹿児島讀賣テレビに入社しました。

22歳のワタシは、
念願のアナウンサーになれたという
喜びと嬉しさと
少しばかりの誇らしさで
全身の末節まで力をみなぎらせ、
出勤したのは、ちょうど13年前の今頃のことです。

当時KYTの夕方のニュース番組は
「ニュースプラスワン」

長島崇彦アナウンサーと
近藤久美子アナウンサーが
鹿児島の今を伝えていました。


長島アナウンサーも
近藤アナウンサーもKYT開局から携わり、
報道制作局の礎を築いたアナウンサー。

ワタシの最初の仕事は、
近藤アナウンサーの取材に同行し、
背中を見て覚えること、でした。

【うわぁぁ!テレビで見ている人が自分の目の前にいるぅ♪】
そんなミーハーは気持ちは
一瞬にして消え去ったことを
今でもハッキリと覚えています。

KYTのアナウンサーは
現場で取材をし、リポートをし、
原稿も書きます。
編集にも携わります。

いつもテレビで優しく微笑む近藤アナウンサーが、
自分の目の前で、
汗を流し、泥臭く、必死でインタビューし、取材して、
ニュース時間ギリギリまで原稿を書く。

思い描いていた華やかなアナウンサー像は、
そこにはありませんでした。

「テレビを見てくれる人のことを常に考えて」

彼女はその全てをワタシに教えてくれた人です。


原稿の書き方、
言葉の使い方、
表情のあり方、
全てに細やかで、
シビアでした。

ものづくりに、妥協はいらない。
ワタシも何度、叱咤していただいたことでしょう。

彼女の厳しさがあったからこそ、
ワタシのアナウンサーとしての
今があります。

どうしても最後のフレーズがかけなかった原稿。
彼女のしなやかで、趣のある言葉の使い方が大好きだったワタシ。
「近藤さん、締めのフレーズ、どうしても思いつかないんです…」
知恵の拝借を求める後輩アナウンサーに
彼女はこう答えました。

「何度も映像を見なさい。何度もその空気を感じなさい。
必ず、言葉が生まれてくる。
時間がかかってもいい。
言葉が生まれてくるまで、映像を見て、現場を感じ取りなさい。
その『生みの苦しみ』を経てできた原稿は
他の誰にもかなわない。
あなたが取材したんだから、あなたの言葉で伝えなさい。」

13年たっても、色あせることのない
近藤さんからの言葉。

このとき、アナウンサーとしてのワタシは、
「生みの苦しみ」から逃げないことを
近藤さんから教えてもらいました。

同時に、いつも一人で編集ブースにこもって
映像を見続けている近藤さんの真意が
このとき初めて分かったのです。

「この人も、ずっと「生みの苦しみ」と戦っているんだ」と。

大切な先輩、
近藤久美子アナウンサー。

彼女は、昨日、3月31日をもって、
アナウンサーという部署を離れることになりました。

今日から放送局の心臓部とも言われる
あたらしい部署で、また新たな業務に勤しみます。

彼女がいてくれたから、
今のアナウンサーとして自分があります。

昨日、
最後のニュースを読む近藤アナウンサーに
胸が熱くなりました。

ニュースを終えた先輩と
抱き合いました。

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大事なこと、たくさん教えていただきました。
本当にありがとうございました。

いつも節目のたびに
お心遣いくださる久美子姉さん。
以前頂いたこどもたちの名前入りのタオルも
オカモト家の日常を支える
欠かせないワンピース。

わざわざ時間をかけて
名入りに仕立ててくださるそのお心使いが嬉しくて…

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久美子姉さんに出会えて、
本当に幸せです。

部署は違いますが、
これからも後輩として
必死に食らい付いて参ります!
これからもよろしくお願い致します!

親愛なる
近藤久美子様に感謝を込めて…

ご訪問、ご精読、
ありがとうございました!