◆TVを見てると、なにか災害があったときにすぐに駆けつける方たちがいる。
崩れた瓦礫や土砂を黙々と運び片付ける仕事は、見ているだけでも疲れるのに、彼らは黙々とやり続ける。立派な方たちだ。
単に被災された人がかわいそうだからという感情だけではあの作業はできない。同胞感というか、もっと意志の強い何かを持っているんだろうな。本当に頭が下がる。
もちろん、かわいそうだから役に立ちたいというだけの衝動的な動機の方もいるだろう。
衝動的な方は、ときに自分の食事や宿を考えずに現場に出向き、それがTVで取り上げられたり、SNSで叩かれたりしている。
「宿も食事も自分でなんとかしろ!」「自分でそれができないなら来るな!」って風潮が、今の社会には溢れているのだ。
でも、そういう方たちでもたくさん集まれば、現場は絶対に助かるに決まってると思うのだが。
実際に宿の手配なんてどうやったらいいかわからないし、何日も宿泊するにはお金がすごくかさむだろう。若い方たちを中心に寄付するお金はないけど体力だけはあるのでなんとか力になりたいって方たちは多いはずだ。
食事も一食~二食ならどうにかなってもそれ以上は現地で調達するしかないのに、現地ではそれが難しい。じゃあ、やめておこうかってことになる。
今の日本じゃ、ボランティアをしたくても、アプローチの仕方を少しでもまちがえると徹底的に叩かれるのだから、参加することに二の足を踏む。
・・・と僕は、いつもニュースなど見ていて感じるのだ。
◆もう一つ・・・
ボランティアの方たちは、片付け仕事だけでなく、精神的にもなにか力になりたいと皆感じている。でも、作業中にはそんな会話や言葉がけなど無理だ。
じゃあ、炊き出しの食事をいっしょに取ったらどうだろう。そういう時間が自然と生まれるに違いない。
ところが、ボランティアは自己責任で食事をしろ!という風潮が、そんな動きを邪魔しているのだ。
一緒に食事を取りながら、被災した悲しみを聞き、一緒に涙を流し、力づける。
いや、言葉などいらない。とにかく悲しみ・苦しみを聞くだけでもすごい力になると思うのだ。
特にご老人はそれを欲しているだろうに、食事は別に取れという今の風潮に、僕はすごくもったいなさを感じてしまうのだ。
ボランティアの方たちの交通はもちろん、宿や食事など、行政でどうにかできるんじゃないのかな。
身体的支援だけでなく、精神的支援を、こういうとこから模索していったらどうなんだろう。
◆さらにもう一つ・・・
ボランティアの人手不足は、僕のような引退して何もしていないが元気な引退世代を招集したらどうだろう。けっこういるんじゃあないかな、暇で元気な老人?
僕自身を考えたときに、能動的に動くほどの積極的な意欲は持ち合わせていなくても、なにかお手伝いできたらいいなあとはいつも思っている。
誰かが後押ししてくれさえすれば、こういう元気な老人は全国からわんさか招集できると思うのだ。
とにかく、実際に汗水たらして動いているボランティアの方たちを、スマホをいじってるだけの人間がどうこういう風潮はなんとかしたいものだ。