韮崎・北杜市の戦争遺跡巡り | くじらぐもびより

韮崎・北杜市の戦争遺跡巡り

 4月14日(日)に明野総合会館で14時から戦争をテーマにした歌語り 山本晴美さんの万歳峠のイベントを行います。

それに先駆けて自分たちの足元にある戦争遺跡巡りを開催しました。先導してくださったのは向山三樹さん(写真中央)

 

3月16日(土)晴れていたけれど風が冷たい日。向山さんのお話を聞きながら3箇所巡ります。

 

須玉町江草出身の八巻太一さん。沖縄昭和高等女学校の校長に。ひめゆり部隊は有名だけれどでいご部隊は初めて聞きました。若くて未来のある女学生たちが戦時中、決戦のさなか傷病兵の看護に借り出されていた。いつか沖縄に行って資料館やひめゆりの塔、でいごの塔も訪れたいと思う。

 

国道141号線から日野春トンネルに向かう手前の右手にある小さな石積み。ここは戦争中、出征する人を万歳で見送った場所なので万歳峠と呼ばれていたそう。近くの三輪神社でお参りして村の人たちはここから見送り。親族たちは日野春駅の鉄道まで見送ったそう。全国各地、ここ須玉と同じように万歳峠と呼ばれる場所があちこちにある。石積みの上にある小さな碑は戦後、地元の青年会が建てたもの。石積みも当時のものでなく、後で作ったものではないか、ということです。

 

私自身もよく使う道。説明を聞いている間も交通量が多い。どんな場所か話を聞くまでは何も気づかず走っていた。だけど、一度話を聞けば、ここを通る度、特別な場所に変わるから想いの力は不思議です。もう少し整備して説明の碑なども建てられたいいのにな、と思う。

 

次の場所は韮崎七里岩地下壕群へ。滝田建材さんの敷地内の奥が2011年に七里岩地下壕平和公園とし、地下壕保存や説明の看板や碑など建てられました。七里岩は15万年前の八ヶ岳付近の大爆発の岩屑流(がんせつりゅう)が堆積したものだそう。アジア・太平洋戦争中、軍部はこの地形に注目し、各地に本土空襲が激化し本土決戦も叫ばれる1945年3月、航空機の重要機種生産確保のため、地下工場化を目指して、地下壕掘削をはじめたもの。

施工途中に終戦を迎えた。

 

絵が薄くなってきたいたけれどたくさんの人たちがもっこを持って土を運び出したり、掘ったり、指導したり、煮炊きする様子が描かれている。

 

大きなトンネルのようなイメージを持っていた私は、水もあちこちにあるし、滑りやすいし、岩は固いし、何よりも中は何も光が届かず、真っ暗でよくこの中を作業されていたと思う。

 

中は碁盤の目のようになることを目指して作られていたので迷路のようになっている。

 

 

 

 

 

所々、工事が途中で行き止りになったり掘削機の鉄の棒が刺さったままの場所やスコップの柄やトロッコの枕木なども残されているところもある。


こんな風に足元は悪い。もっと水がたまっている場所も

 

 

 

工事にあたってたくさんの人たちが従事していた。その中には朝鮮人労働者も多数過酷な労働に動員された。1945年には2000人以上の朝鮮人が峡北地域に居住していた。終戦の日、朝鮮人たちはアリランを歌い踊り、植民地からの解放の喜びを表したそう。

 

 峡北地域は甲府空襲の影響もあり、かなりたくさんの疎開した人や傷病兵や朝鮮人労働者もいたので人口は多くなっていたそう。

 

無事に怪我なく全員戻ってきてほっ。向山さんから長靴と懐中電灯と言われていたけれどここまで過酷な場所と思っていたなかった私はびっくり。

 

こんな斜面の途中に壕に入る穴が掘られた

 

次は明野町小笠原豊の沢にあった海軍省功績調査部韮崎分室の跡地へ。

藪の奥に見えている穴2つは地元の方は乞食穴と呼んでいて自然にできたもの。この山の奥に地下壕を掘削し電気、電話を引いて仕事を開始したのは7月になってから。秘密を守るため両家の子女たちが疎開して功績名簿の戦死事項を書き記していたそう。

戦争末期多くの軍関係機関が峡北地域に移転してきた。本土決戦の事態になっても重要書類を保全できる適地を関東周辺に探したところ、地下壕を掘削するのに地質が適し、交通、通信が便利で食料が確保しやすいなどの理由からこの地が決定された。

 

8月15日は2本の地下壕のうち1本の開通祝いを予定。炎天下で玉音放送を聞く兵士たちの目には涙が。その後はひたすら書類の焼却。敗戦を受け、証拠を隠すためいろいろな書類があちこちで焼却されたそう。

 

いくつかの残された資料は米軍が持ち去り、少しずつまた返還されつつある。

終戦から53年経って功績調査部の資料が生かされ遺骨収集の重要な手がかりとなっているそう。

現在壕の内部は崩壊が激しく、立ち入ることはできないため、近くの場所で向山さんの話を聞きました。

 

 今回、偶然、87歳の男性の方がこの遺跡巡りに参加してくださった。その方が中学1年生の時に広島で被爆されたことを聞いて、ご縁は偶然に見えるけれど必然なんだと改めて感じた。

知ることから見えてくる世界をもっとどんどん広げていきたい。

 

 ぜひ、たくさんの方にまずは山本晴美さんの歌語り「万歳峠」を見に来ていただきたい。